「父親がしのびなくて…」
5年目に解けたA子を救った謎
抗がん剤の副作用に怯えながらがんと闘う中学生の少女。
そんな娘の姿を見かねた両親が相談にやってきて、抗がん剤治療を中止してから五年半、少女は大学生に。
彼女を支え救った謎が、婦長がカルテに記した一行に隠されていた。
帯津良一 (おびつ・りょういち)
1936 年埼玉県生まれ。東京大学医学部卒業。医学博士。東京大学第三外科、都立駒込病院外科医長などを経て、現在帯津三敬病院院長。専門は中医学と西洋医学の結 合によるがん治療。 世界医学気功学術会議副主席などを務める。著書に『がんを治す大事典』(二見書房)など多数。
久し振りのA子さんからの手紙です。
2ヶ月に1度ぐらいの頻度で私の診察室に現れるので、A子さん自身はそれほど久し振りという感じではないのですが、手紙は久し振りなのです。診察室では余計なことはほとんど言いませんが、折りふれて、ゆっくり自分の気持ちを私に伝えたいときは、こうして手紙で書いてくるのです。
字にも文章にもそのたびに成長の跡が窺えます。今度の手紙も四角なきれいな字と若い娘さんらしいみずみずしい文章です。
念願の大学に入学したとあります。
ほう、もうそんなになったのだ、と2ヶ月に1度、新幹線でやってくるA子さんの姿がその時その時、走馬燈のように浮かんできました。
そして、大学進学の喜びよりも、長い道程を経てここまで来ることができたという感慨と周囲の人々に対する感謝の気持ちが綴られています。
もう5年半も前のことになりますが、たしか12歳だったと思います。ご両親に連れられてはじめて私の前に現れたA子さんの怯えたような表情を今でも思い出すことができます。それまでの治療の辛さがよほどこたえていたのでしょう。そして、今度は何をされるのかという不安でいっぱいだったのではないでしょうか。思い出すだけでもこちらの胸まで痛んできます。
彼女が身体の異常を訴えたのは平成3年の春、中学に進学して間もなくの頃でした。主訴は腹部膨満でした。まず近くの病院を受診。卵巣原発のがん性腹膜炎と診断をうけ、その地方のメディカル・センターともいうべき大学病院に転医入院しました。
手術の適応はありませんから、抗がん化学療法です。卵巣がんは抗がん剤によく反応する部類に入りますから、これは当然の選択です。しかし副作用も相当なも ので成人でも音をあげるほどですから、幼い心身にはさぞかし辛いものだったのではないでしょうか。3ヶ月間は耐えたのですが、ご両親が見るに見かねて私の ところに相談にきたのです。
そのとき、どんなやりとりがあったのかよく憶えてはいませんが、その数日後には大学病院の治療を中断した、ご本人があの怯えたような表情で私の前に現れたというわけです。平成三年の夏のことでした。苦しい選択だったと思います。
私の方も決して自信があったわけではありません。まして抗がん剤に代わる特効薬を持っているのでもありません。とにかく考えられる治療法を一つひとつ積み重ねていくだけです。
入院はもう懲りごりだというので、とりあえず自宅でできる治療法を考えました。
「この病院の治療には苦しいものは一つもないんだからね。心配しないでいいんだよ。」と言いながら、漢方薬とビタミンCを処方し、機能性食品といわれるもののなかから乳酸菌生産物質を一つ選んでみました。
「漢方薬は苦いよ。とてもおいしいなんてものじゃないよ。だけど、昔から”良薬は口に苦し“というでしょ。そう思って飲めば、そんなに飲みにくいものじゃないですよ。まあ少し我慢して飲んでみてよ。でもどうしても飲めないようなら、言ってください。いつでも内容の見直しをしますから。」ということで、そのときの診断にしたがって、黄耆、女貞子、ヨク苡仁、寄生、白ジュツ、霊芝という処方で開始しました。
ビタミンCの大量療法は欧米ではその効果を評価する向きもありますが、わが国では認められていません。当然、健康保険の適用もありません。しかし、なんといっても廉価なのですすめました。
はじめは1日3グラム。
乳酸菌生産物質は機能性食品とか健康食品とか呼ばれるものの一つですから、その効果に客観性、再現性を求めるわけにはいきません。しかし、自然治癒力にはたらきかけることが予測される、この手のものは、ホリスティックなアプローチのなかでの戦術として、その存在意義は十分にあると考えているものですから、ご両親との相談の上で、子供でも飲みやすいという理由だけで、これを選んだわけです。
漢方薬にしろビタミンCにしろ乳酸菌生産物質にしろ、自然治癒力そのものが科学で解明されていないのですから、決して過大評価は禁物です。定期的にその効果を判定しながら、いつも挿し替えをしていきます。
それともうひとつ、このようにいくつかの治療法を組み合わせる場合、取り合わせの妙というものがあります。納まりがよいというのでしょうか。とにかく、この三つを選んだとき、私の気持ちがなんとはなしにいいのです。
このことも”場“のはたらきなのではないでしょうか。だから医療というものを”場の営み“として捉える以上、このようなことも大事なことのように思えます。
この納まりがよいことが功を奏したのか、 A子さんは日を追って元気を回復していきました。その表情からは不安が消え、来るたびに笑顔のボルテージが上がってきます。腫瘍マーカーも少しずつ下降してきましたし、腹部も平らになってきました。
「調子はどうですか。」
「いいですよ。学校でも全然疲れません。そろそろ体育の授業にも出たいんですけど。」
「いいじゃないですか。だけどはじめからあまり飛ばさないでね。」
「なんだか、急に逞しくなってきたんじゃない。」
「ええ、今度、高校生になりました。」
「えっ! もう高校生?」
「
おかげさまで。」
「ますます娘さんらしくなってきたね。でも、今日はなにか少し疲れているみたいだけど。」
「そうかもしれません。ここのところアルバイトが忙しいんです。」
「アルバイト? 何をしているの。」
「近所のお寿司屋さんの出前です。夕方だけですよ。」
「あんまり無理をしちゃ駄目だよ。」
2ヶ月に1回、こんなやりとりを繰り返しながら、五年半の歳月が過ぎていったのです。その歳月のなかで、A子さんを中心にした”場“のポテンシャルは少し ずつ上昇していったのです。いつもこうとはかぎりません。それだけに、今度の手紙を手に感慨も一入といったところでした。
カルテを繰ってみました。最初の頁にはY婦長がはじめて父親から電話で相談されたときのやりとりが、そのまま記録されています。読みにくい走り書きのなか に「父親がしのびなくて」の一行だけが鮮やかに浮かんでいます。前後の脈絡を判断する暇もなく、「これだ! この子を救ったのは!」と合点しました。苦し い治療に健気に耐えるわが子を見るのがしのびなくて矢も楯もたまらず電話をしてきたのでしょう。これ以上の場の絡みはありません。
謎が解けました。これまでの5年半が全部、腑に落ちたようです。