関羽の仇討ちにと呉を攻めた蜀軍は、夷陵の戦いに大敗し、劉備は失意のうちに白帝城に立てこもるが、自らの命の灯火が尽きるのを悟った。
岡田明彦
清代に白帝廟と改名された廟内には、病床の劉備が諸葛孔明に子供を託す名場面が作られていた長江の滔々とした流れを下って、四川省奉節県の港に着くと、北岸に白帝山の美しい姿が現れる。この山頂上に白帝城が築かれていて、今では劉備を祀る廟として長江の流れを見続けている。その廟内には、病床に臥した劉備を取り巻くように、孔明や重臣が立ち並び、2人の息子が劉備の前にひれ伏している像が置かれている。『三国志演義』の中でも「劉備托孤」と題され、劉備が自分の子どもたちを諸葛孔明に託す名場面である。
劉備は63歳の夏に亡くなったが、その遺言に病状のことが記されている。「朕の病んだ初めは、ただ下痢をするだけだったが、余病をしだいに発して、もはや癒えぬであろう。50年の歳を過ぎたものは短命とは称せぬと聞く。朕は60余りであるから恨みはない」云々とあることから、当時の平均寿命は50歳くらいだったことがうかがえる。
また、初めは下痢が続くだけだったが、その後に手足の自由が利かなくなり、目もかすみ、関羽と張飛の霊が枕元に現れると「胸が苦しく、心が安まらない」と精神症状を伝えている。遺言状に後に余病を発したとあるのはこのことを指していると思われる。
当時敵対していた魏軍や呉軍も流行病で騎兵歩兵の6、7割が死亡したとあるから、中医学で診る外感(四季などによる暑さ、寒さ、乾燥、湿気)の病によるもので、特にこの時期に引き込みやすい「湿熱疫痢の気」に侵されたのではないだろうかと推測できる。感染すると下痢を起こし大便の中に血液や粘液が混ざり、長く下痢が続くと、そのことから内科疾患、「雑病」を引き起こすとされる。劉備の遺言に余病とあるのはこの雑病のことだと推測される。