生 いのちのはじめのバイオエシックス
人工生殖技術・中絶・移植・遺伝解析などをめぐって
そしてそれが、特定の人々のみによって管理されるとしたら自体は重大である。
今、自分のいのちは自分で守ることを市民一人一人が考え、
実践していかなければならない時代がきた。
木村利人 (きむら・りひと)
1934年東京生まれ。早稲田大学第一法学部卒業。同大学大学院法学研究科博士課程修了後、サイゴン大学、ジュネーブ大学大学院教授、ハーバード大学研究員等を経て、ジョージタウン大学医学部客員教授、早稲田大学教授。著書に『バイオエシックスとは何か』等多数がある。
自分のいのちを自分の手に取り戻す運動
いのちのはじめをどう考えるか
日本でも行われていた無脳症の赤ちゃんによる臓器移植
われわれ自身の対策をつくる必要
自分のいのちを自分の手に取り戻す運動
バイオエシックスというのは、非常に広がりを持った学問である。たとえば老後をどうしようとか、身内が脳死と診断されたらどう決断するだろうかとか、お腹の赤ちゃんに遺伝的な異常があるということになったらどうしようとか、いろいろな問題が日常的な私たち自身のいのちの決断の問題として存在するわけであるが、そういう問題をどのように考えたらいいかを踏まえながら、自分のいのちを自分たちの手に取り戻そうということでバイオエシックスが展開されてきた。
ところが日本では、厚生省や医学界が一般の草の根バイオエシックス運動とほとんど関係なく、一種の職業的・専門的なガイドラインをつくって、それを国民に あてはめていくという方向になっている。一般の市民や医学外のいろいろな専門家を含めた米国大統領バイオエシックス委員会などとは方向が逆なのである。
アメリカのバイオエシックスの運動というのは、私の分析によれば、1960年代からの女性の解放運動や公民権運動、あるいは科学技術を市民の手に取り戻す 運動など、大きく拡がってきた中で展開されてきたわけだが、その後教育・研究・学会などの発展を経て、ここ2、3年はその第二段階として、コミュニティの 中で再び大きく展開されている。市民のバイオエシックスグループがいろいろなデータを蓄積し、コミュニティの中で集会などをやりながら問題を出し、それを 州や連邦政府がとりあげるという形になってきた。
遺伝子分析装置。アメリカでは遺伝子組み換えのガイドラインつくりはコミュニティの中で展開されてきた
つまり、アメリカではバイオエシックスは、たとえば遺伝子組み換えのガイドラインにしても、幅広く一般の人たちの決断、考え方、提案などを積み上げる形で コミュニティの中で展開されてきたのに、日本では専門家だけが主導権をとって外国でできたものを持ってきて、それを日本にあてはめる形になっており、これ は大きな問題である。
ニューヨークにヘースティング・センターという世界で最初に設立されたバイオエシックスの研究所があるが、所長のカラハン博士は、センターが始まった時にはまさかバイオエシックスがこんなに世界の関心を集めるとは思わなかったと語っていた。
私もヘースティング・センターでの学会で報告したり、そこで出しているヘースティング・センター・レポートという研究誌に論文を書いたりしたが、そのうちの一つのテーマは遺伝的障害を持つ赤ちゃんの治療基準をどうつくるかという問題であった。
お腹の赤ちゃんに障害があるとわかった時、アメリカではそのことをはっきりと両親に告げる。そのうえで生むか生まないかは両親の決断にゆだねる。人工中絶 をすることもあるし、カトリック信者の場合は、人工中絶はしてはいけないという教えがあるため、生むケースもある。その時はどの地域にはどういう学校があ り、どういうケアをしているか、あらかじめ考えていくわけである。
日本の場合は、ある大学の医学部の先生が私に言っていたことなのだが、生むか生まないかを両親に決断させるのは酷であり、むしろ医師側が責任をもって判断して、仮に生まれてきても死産にするというのだ。日本は、そういう形の文化なのである。
いのちのはじめをどう考えるか
いのちを自然のままにまかせないということは、ある意味では人工的にいのちをつくり出すことにつながってくる。赤ちゃんができない場合は人工受精や体外受精をすることになる。
たとえばアメリカでは、夫の精子に異常がある場合や、独身女性が子どもを生みたい場合には精子を買うシステムができあがっている。カリフォルニア州の精子 銀行のリストには、人種、血液型、髪や目の色、身長、体重、宗教、学歴、職業などが書いてあり、その中から選んで電話注文をすると、宅配サービスで冷凍さ れた精子を送ってくるという状況になっている。
アメリカでは人間の知恵を使って子どもをつくることが当然だという考え方が広くいきわたっているから、べつに抵抗なくそれができるのである。
日本では法律上成立した夫婦の間だけ、不妊治療の一環として人工受精や体外受精が認められている。医療専門家による倫理基準をそういう形でつくっているわけである。他の国でも人工受精は法律上認められた夫婦関係のみに許されるというケースが多い。
このように現在は、いのちの終わりだけでなく、いのちのはじめも、自然にゆだねない時代になっている。だからこそそれを専門家ではなく、われわれ自身がどう考えていったらいいのかがバイオエシックスの原点になってくるのである。
日本でも行われていた無脳症の赤ちゃんによる臓器移植
アメリカで妊娠中絶が問題になっているが、先程も述べたようにカトリックの教えでは中絶はいけないわけで、それに対して、女性のからだのことは女性に選択権を認めるべきだという、女性からの反対がある。
アメリカの連邦最高裁判所は女性のプライバシーの自由として、1973年に中絶を認めた。
しかし、宗教的な信条から中絶しないという人もあり、当然それも認める。たとえばお腹の赤ちゃんが無脳症というケースがある。無脳症の場合は仮に生まれても、100%死んでしまうので中絶するケースが多いのだが、カトリックの場合は宗教的信条に従えば、中絶できない。
あるカトリック信者の母親は無脳症の赤ちゃんを生むことにしたが、赤ちゃんの臓器を使ってくださいと申し出たのである。無脳症の赤ちゃん1人で、5人くらいの内蔵に欠陥のある赤ちゃんが助かるわけである。そういう申し出を受けて、実際に臓器移植を行ったケースがある。
カリフォルニアのロマリンダ大学という大学で、このように一人の赤ちゃんの死を他の赤ちゃんの生につなげる発想が許されるかどうかで、大きな議論になっ た。臓器を使う目的で生むということは、人間の道具化になるのではないかというわけである。私はいつも思うのだが、こういう話がアメリカの場合わりにオー プンに出てくるのだが、日本ではオープンにならないのである。
この無脳症の赤ちゃんの臓器移植の話は、1985、6年に問題になったのだが、実は日本ですでに1981年に行われていたのである。私も当時知らなかったのだが、ロマリンダ大学でこの問題の検討委員会をやっている先生が書いた論文の中に出てくるのである。
試験管の中で行われる受精。アメリカでは精子を買うシステムができあがっているという。
1981年に名古屋の中京病院で、名古屋大学の医学部で生まれた無脳症の子どもの腎臓を運んで、移植を必要とする赤ちゃんに提供したと書いてあるのだ。
残念ながら成功しなかったが、日本ではそういうことがオープンにならない。しかも、その日本の医者は、日本の場合脳死が認められていないので臓器移植はむ ずかしい。だからどうせ死んでしまう無脳症の赤ちゃんの場合はどんどん臓器を他の生きる可能性のある赤ちゃんのために使うべきだと言っている。そういうこ とが密室で行われると、両親に知らせないで医療側がお父さんやお母さんに代わって判断して臓器移植をする可能性も出てくる。これはたいへん恐ろしい事態だ と思うのである。
われわれ自身の対策をつくる必要
いま、世界中で大きな問題の一つは、ヒト遺伝子が解析されるようになってきたことである。どういう遺伝子を持っている人はどういう欠陥が生じると か、いろ いろな遺伝子がわかてきた。そうなると、成長ホルモンの遺伝子を入れれば背が高くなるとか、知能を促進する遺伝子を注入すれば頭がよくなるとかいって、薬剤にして売り出せばもうかるわけである。
体外受精のための様々な器具
このように、未来における人間自身の改造への可能性を含む、遺伝子解析の大型プロジェクトが始まり つつある。すでにアメリカでは200億円をかけて始まっており、日本もおくれじと準備しているのである。とくにヒト遺伝子の解析については市民として今後 注目していかなければならない重要な問題である。
私たちがいまの時点でコミュニティレベルの運動を進めていかないと、草の根の一般の人々によるいのちを守り育てる運動とまったく関わりのない形で、専門医 学会や医師会なり厚生省なりが決めたことに従わざるをえなくなるわけであり、それはたいへん危険である。時間をかけても、自分たちの周囲やコミュニティの 中で話し合い、どんどん対策をつくっていく必要がある。
自分のいのちは自分のものであり、自分のいのちを自分が守り育てるための戦略をともに知恵を出し合って考え、具体的なバイオエシックス運動のネットワークを日本中に展開したいと思うのである。