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中医診療日誌 – 3

夏負けに克つ 体内の水分代謝と脾(胃腸)の機能回復にポイントをおいた夏負け対策

夏負けは一般には秋口に発生しやすいといわれるが、高温多湿の日本では梅雨の頃から体調をくずす人が出始める。できるだけ早い時期から体内の水分代謝と脾(胃腸)の機能回復をはかる必要がある。ただし、現代ではエアコンや冷たい飲食物の普及により、夏負けはますます複雑化しており、適確な原因把握とそれに見合った予防・治療策が求められるようになってきた。

平馬直樹 (ひらまなおき)
1978年東京医科大学卒業後、北里研究所付属東洋医学総合研究所で研修。87年 より中国中医研究院広安門医院に留学。96年より平馬医院副院長、兼任で、後藤学 園附属入新井クリニック専門外来部長として漢方外来を担当。

濡脈と歯痕に典型的な徴候

毎年、入梅の時期になると、「例年夏負けに悩まされるので、今のうちから漢方薬で予防したい」という相談が増えてきます。6月中旬に来院した52歳の主婦・H美さんもその1人でした。
「ここのところ年を追うごとにひどくなっています。なんとかならないものでしょうか?」ととても深刻な様子です。
H美さんは身長156センチ、体重が46キロと、中肉よりちょっとやせ気味のようです。「もともと胃腸が丈夫でなく、体力もないほうです」とのことでした。
とはいえ、これまでとくに大きな病気をしたこともなく、すでに2人の子供も育てあげ成人させています。主婦として普段は何の支障もなく生活をしていますが、夏場だけ極端に体調が悪くなるそうです。
夏が来ると、身体がだるくて仕方なく、どうしても元気が出てきません。食べ物もそうめんとかスイカとか、冷たくて水っぽいもの、あっさりしたものしか受けつけなくなります。体重も3キロから5キロくらいも減ってしまうそうです。そして、9月に入るとようやく少し食べられるようになって、10月くらいになればようやく元気が出ておいしく食べられるようになるといいます。

問診するとH美さんは、「身体が重いような感じがする」と訴えました。食欲はまだそれほど減退している状態ではありませんが、顔色を見ると何か白っぽく、 むくんだようなくすんだような色でした。脈をみせてもらうとやや力が弱く「需脈」といわれるやわらかい脈が現れていました。舌を見せてもらうと、白い苔が 薄く生えているため本来のきれいな赤色が損なわれています。さらに特徴的なのは、中医学では「歯痕」といいますが、舌の縁に歯の跡が目立つことです。ま た、お腹を触診すると力が少し足りない状態で、やや張ったようでガスが溜まっているような感じです。みぞおちのところを叩くとぽちゃぽちゃと水が溜まって いるような音がしました。

大陸の「柱夏」とは違った高温多湿タイプ

夏負けというのは中国でも古くから知られていた病気です。明時代の『丹渓心法』という医学書では、夏負けのことを「疰」といって病名で紹介しており、のちにこれは「注夏」という中医用語になりました。
ただし、中国の夏負けの概念は、主に「熱さによる体力の消耗」というニュアンスが強く、日射病や熱射病のような状態を示します。この場合も、体質的な問題として胃腸虚弱などがあって、それが夏の炎暑に適応できないで起こるとされるのです。
注夏の病の症状としては、めまい、頭痛、だるさ、食欲不振、足に力が入らない、身体が熱っぽい、あくびが出る、胸が苦しい、汗がだらだら出るといったことが挙げられています。中医学ではとくに夏に汗をかきすぎると、それにより身体のエネルギーである気と身体の栄養物質である陰が失われ、気陰両虚という状態になり、注夏になると解釈します。これに対して、例えば白虎加人参湯という薬に補中益気湯という薬を併せた処方で、気と陰の両方を補って、身体の中にこもった熱を冷まそうという考え方が伝えられてきました。『丹渓心法』と同じ頃に、李東垣という人が『脾胃論』という書物を著していますが、この中では清暑益気湯という処方が紹介されています。これも気陰両虚を解消するための薬で、現在も用いられています。
日本の夏の気候は、中医学の中心地であった中国の中原地方に比べれば、基本的により高温多湿です。しかも、6月の梅雨の頃から湿度が高くなり、これが台風がやってくるシーズンまで長期間続くという気象的特徴があります。
一方、中国は梅雨がないために、夏が来るといっきに気温が高くなるという特徴があります。そのために炎暑により汗をかいて気と陰とが失われるという夏負けのしかたをすることになるわけです。さらに中国の秋は乾燥の季節であり、暑さも急に失われていきます。このように同じ夏負けの季節でも、日本と中国ではかなり気象条件が違うわけです。
もう一つは、日本は大陸に比べて体質的に胃腸が丈夫でない人が多いという特徴もあります。中医学の言葉でいえば脾虚体質の人が多いわけで、夏負けのしかたも中国の注夏の病とはちょっと違って、だるくて食欲不振になってしまい、冷たいあっさりした物しかのどを通らないという、H美さんのような症状が典型的に現れます。
脾虚の体質ということは消化吸収の働きが弱く、同時に水分代謝の機能も衰えています。こういう人が湿気が高い梅雨のシーズンを迎えると、身体の中に余分な水分が溜まりやすくなってしまいます。
H美さんが濡脈という柔らかい脈だったのは、まさに身体の中に過剰湿気があることを現すものです。それから舌に「歯痕」ができるというのは、一つは気の力が弱くて舌の反発力が弱いためであり、もう1つは身体の中に余分な水分がたまっているので、舌もまたボテッとした湿り気のあるむくんだ状態になっているために歯の跡がつきやすいのだという解釈ができます。
さて、湿気は湿邪といい、風邪や寒邪と同じように外界の病邪の1つですが、湿邪の性質は「重濁」などと表現されます。湿気が身体の中に停滞すると、その影響を受けて重くまとわりつくような症状が現れがちです。すなわち、身体や手足が重くだるくて、頭も布で締めつけられたように感じ集中力が失われ、関節も筋肉も動かしにくいといった状態が目立ちます。

もう1つの湿気の特徴は、「粘滞」とも表現されます。ジトジトベタベタしてすっきりしない症状が綿々と続き、身体の気の巡りを障害しやすい状態にな るのです。そのために胸が張ったように感じて気持ちが悪く、胃がつかえる、苦しいといった症状を伴い、胃腸の機能が侵されて食欲や消化の機能がますます低 下することになります。
このように身体に湿気が停滞するという状態が長く続くと、「痰飲の邪」という病的な水分になるという解釈があります。それ がさらに身体に悪い影響を与え、胃腸の機能をさらに障害しやすくなるわけです。それからめまい、吐き気、下痢という症状を伴うことがあって、身体がますま す重くなってしまいます。
痰飲が生じているかどうかを中医師が診るときには、舌の所見がとくに重要です。舌の苔が白くべったり厚くなってくると、 ただの湿り気ではなくて病的な痰飲に変わってしまったという解釈ができます。もっともH美さんの場合は舌の苔は薄いので湿気が停滞している状態に過ぎず、 まだ痰飲の形成まではいっていませんでした。

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冷房や冷たい飲食物が症状を複雑化する

日本人の夏負けが高温多湿という気候風土の影響を受けているということは、昔からの傾向ですが、近年は生活習慣が変わってきたことによって夏負けの症状がいっそう複雑になっています。それは1つは夏の冷房による冷えという要素が加わったことです。1日中冷房の効いたオフィスで仕事をしていることから、「夏なのに冷えがひどい」と訴える人が若い女性などを中心にけっこう多くなっています。
さらにオフィスや通勤の車内と外気との温度差も身体にダメージを与えます。
周りの温度が暑くなったり冷えたりするということで、身体に備わった生理的な発汗作用が変調をきたすことになりがちです。身体の温度調節が上手にできるかどうかは汗を上手にかけるかどうかということにかかっています。冷房による温度差でうまく汗をかけなくなって、身体の表面に熱がこもっているのに身体の中は冷えているという人が意外と多いのです。
身体に熱がこもった結果、冷たい飲み物や果物を求めることになります。冷たい飲み物というのは、ちょっと飲んだくらいではなかなか渇きが癒されず、余分にがぶがぶ飲むことになりがちです。さらに多量に砂糖の入った飲み物になると、浸透圧の関係で飲んだあとかえってのどが渇いてしまいます。現代は冷房と同様、冷蔵庫がどこの家にもあって、日本人は冷たいジュースや缶コーヒーなどの飲食物を摂りすぎることになりがちです。その結果、お腹の中は水浸しでいつもポチャポチャし、すっかり冷えているというケースが多いのです。このことが夏負けをさらに複雑にしている要素です。のどの乾きを癒すなら、本当は冷たい清涼飲料水ではなく、熱い1杯のお茶を飲むほうが効果的であることを知っておいてほしいものです。
十数年前、私が中国へ留学していた頃のことです。当時の中国はまだ冷蔵庫がそれほど普及していなかった時代でした。ある時、私は自分の宿舎に先輩の中医師を招いたのですが、暑い日だったので彼をもてなすためにスイカをうんと冷やしておいたのです。ところが、そのスイカを一口食べると彼は、「スイカは本来甘くておいしいはずなのに、こんなに冷やしたら味がわからなくなってしまうではないか。まして、冷めたいものは身体にもよくない」と私をたしなめたのでした。夏の間、冷たい物を摂り過ぎるということが日本人の生活習慣になっていることに、改めて気づかされたというわけです。

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シーズン後から次の夏負け対策を

日本では一般に残暑の季節になってから「夏バテに注意しましょう」ということが多いようです。確かに8月の終わりから9月初め頃にかけて、ガクッとくるというタイプの人も少なくありません。これは梅雨から真夏にかけて暑さや屋内外の温度差に耐えて頑張りすぎた結果として気陰両虚の状態に陥って現れる夏負けです。
ところが、H美さんのように胃腸の丈夫でない、体内に水分の溜まる本当の夏負けタイプの人は、もっと早く、梅雨に入った頃から夏負けが始まります。すなわち、残暑の季節の夏負けは、それより胃腸が丈夫で体力のある人のものということになります。
さて夏負けの治療ですが、H美さんのような人の場合、胃腸をしっかり丈夫にするということとと、余分な湿気が溜まらないように水の代謝を活発にするということがポイントになります。とくにH美さんは、胃腸の気が滞った状態になっていると考え、気のめぐりをよくするということを目的とした「香砂養胃湯」という薬を処方しました。この薬は胃腸を丈夫にすることを目的とした朝鮮人参、香附子、縮砂、香などの生薬と、白朮、茯苓など体内の余分な水を排除する機能をもった生薬を配合しています。
そのほかここでは使いませんでしたが、胃腸の気のめぐりをよくするという意味では紫蘇の葉などをよく用います。こうした香りのいい植物は胃を丈夫にし、食欲を増進するのに効果的であることから、日本の生薬学では「芳香健胃剤」と呼びます。一方、中国ではこうした胃腸の気のめぐりをよくする植物の作用は「脾(胃腸)をいい香りでハッと目醒めさせる」という意味で「醒脾」と呼んでいます。刺身や豆腐の薬味に紫蘇の葉や実をよく使ったりするのも、そうした作用に着目した生活の知恵といえるでしょう。

じつは「香砂養胃湯」の処方には、似たようなバリエーションがいくつかあるのです。例えば普段もう少し体内に湿気がたまって食欲がなくなっている人は「香 砂平胃散」という薬、痰飲の邪がさかんになっていてもっと胃腸が弱く身体が重くて舌の苔がべたっりしている人には「香砂六君子湯」という薬をよく使いま す。
このほか汗のかき方がよくない人のためには「正気散」という薬があります。これもやはり芳香性の薬で、胃の機能を高めるだけでなく、ピリピリ辛くて発汗作用も持っており、夏場の風邪にも使われる薬です。
先ほど紹介した『脾胃論』の著者である李東垣が作った「清暑益気湯」という処方も、後世、いろいろ配合が変わって名前の違う薬が何種類も生まれました。その時代その時代の医師が、夏負けの防止と治療の処方の薬を工夫して編み出したわけです。

これらの夏負け対策の薬は、シーズンを迎える前に、より早く使えばより確実な効果がもたらされます。薬が効いて夏負けが軽くすんだという人は、できればシーズンが過ぎてもその薬を飲み続けて胃腸を丈夫にするほうがよいのです。
もちろん夏負け対策として、食生活も大切な要素ですから、H美さんには食事指導も行いました。「そうめんやスイカくらいしかのどを通らない」というのでは、かえって夏負けを促進させることになってしまいます。どうしても冷たい物を食べたいというなら、量はより少な目に、あまり冷たくしすぎないことが大切です。また、そうめんを食べるなら紫蘇などの薬味をどっさり使うという工夫をするといいでしょう。そして胃腸を丈夫にするためには、何といっても穀物をしっかりよく噛んで食べることです。H美さんには、「初めは食べにくくても、続けていれば必ず食欲が出てきます」と説明しました。
「香砂養胃湯」と食事の改善により、H美さんはこの夏をかなりラクに過ごすことができたようです。食欲もあまり衰えることなく、最大でも1キロ前後の減量にとどまっています。