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心で看る

お互いの心に障害を持たないこと

交通事故で肩から下の感覚を失った女優が、新しい使命に目覚め、語り部としてカムバックしていく心の軌跡。
それは、知識編重と技術革新の波の中で、
便利さと効率を追い求めて生きる私たちへの警鐘でもある。

萩生田千津子 (はぎうだ ちづこ)
1947年山形県生まれ。69年文学座に入り女優として活躍。82年に車の運転中に貧血で交通事故を起こし、肩から下の感覚をなくす。翌年車椅子で女優としてカムバック、現在、民話の語り芝居、講演に活躍している。91年国際ソロプチミスト日本財団の婦人向上賞受賞。

車椅子で女優としてカムバック

後藤
以前に萩生田さんの語り部を聞かせていただいてとても感動いたしました。語り部になられたいきさつをうかがいたいんですが。
語り芝居「ベッカンコおに」(さねとうあきら作)を熱演する萩生田さん(1991年3月)(厚生省中央児童福祉審議会推薦文化財(1991年))
萩生田
私は今は車椅子ですが、以前は劇団文学座で女優をやっていました。14年前に交通事故で首の骨を折り、手も足も指もまったく動かない、目と口しか動かないという状態になりました。
病院に収容されたときには、もう虫の息でした。輸血が間にあって、何とか蘇生させていただいたんですが、そこでのドクターの第一声は、「もう一生寝たきりでしょう」でした。
自分としては骨折だからと簡単に考えていて、いずれ歩いて帰れると思っていましたから、「まさか。そんなわけないじゃない。私、さっきまで歩いてたんだもの」。お医者さんというのは悪いことを先に言っとくんだと思ったんです。
それが日を追うにつれて現実になっていって、5ヵ月後にリハビリ専門の病院に転院して8ヵ月くらい経ってもまったく歩けない。腕は少し動くようになったものの、握力は右手が0、左手が3キロくらいで、手はぶらぶらでまったく使えないんです。でも、顔ではにこにこ笑っておりました。病院では明るい患者さんで通っていましたから、いまさら元気なくなれなくなってしまって。
心の中ではもうだめだろうなと思ってはいました。しかしそれを口にしてしまうと、私の人生すべてがここでプツッと切れて終わるという気がしたんです。だから何があっても、口が裂けてもこれだけは絶対にいうまいと、誓っていました。
そんなかで、8ヵ月たった時に、1983年の4月19日のことですが、小説家の水上勉先生が病院を訪ねてくださいました。先生とのご縁は文学座在籍当時に、『越前竹人形』とか『五番町夕霧楼』などの作品に出させていただいて以来、とてもいい思い出がいっぱいあるもんですから、病院のベッドで、あの話、この話と思い描いていたんです。それが私の目の前にまるでウソのように現れてくださった。
そこで私はうれしくって声を出そうとしたんですが、先に涙が出てきてしまいました。そこで私はいってはならないことをいってしまったのです。
「先生、私、女優できなくなってしまいました」
滝のようにあふれる涙の中で、声を上げて泣いてしまいまして。
そしたら先生が「そんなことはない。なにも跳んだりはねたりするだけが女優やないやろ。世の中にいらんものなど一つもない。人間かて同じや。いらんで生まれてきた者はおらん。みんな必要があって生まれてきとんのや。もう一度もろた命やないか、命を使うてみぃ。命使うて書いてシメイて読むんや。おまえさんにも使命があるやろ。おまえさんにしかできんことがあるやろ。失のうたものは考えるな。声が残っとるやないか。声を使って生きろ」
左・萩生田千津子さん 右・後藤学園
文楽人形一座「竹芸」の旗揚げをするから劇団の語り部として戻ってこいとお誘いいただいたんです。 「琵琶と尺八がおまえさんを助ける。人形がおまえさんの代わりに芝居をする。人形に魂を吹き込んでくれればええんや」というのでびっくりしました。
ところが私は肺活量が3分の1に減っていて、手もぶらぶらで本のページもめくれない。「私にできるでしょうか」というと「やりもせんでいうんやない。やってからや」と、怒られてしまいました。
その時先生のお嬢さんに、生まれついてのハンデで車椅子に乗っておられるのですが、「萩生田さん、車椅子は私たちの足でしょう。白い杖はその人の目だし、手 話はその人の言葉だし、補聴器はその人の耳だし、近眼や老眼だから眼鏡かけてるわけだし、不自由なものをそういうもので助けてるだけじゃない。だから、眼 鏡かけた俳優も女優もいるんだから車椅子に乗った女優がいてもいいじゃない。まだ日本に車椅子のプロの女優がいないなら、あなたが最初の人になればいい じゃない」。
それで「よしっ。やってみよう。」と、やらせていただいたのがその年の10月4日から、1週間9ステージの先生のスタジオでの旗揚げ公演だったのです。『越前竹人形』という舞台、先生の作・演出で1時間50分の1人語りをやらせていただきました。

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「萩生田千津子物語」を語る

後藤
今のお話うかがっていて、事故に遭われてから語り部になろうと決心されるまでの心の軌跡がよく解りました。私たち医療関係者は、患者さんや障害をも つ方の考え方や立場を理解しよう、なんとか近づこうと努力をしていますが、本当に解ることはとても難しいことだと思っています。ご自身が障害をもたれて、 ああ、こういうことなんだとお感じになられたことはありますか。
萩生田
1番大きく感じたことは、何にも知らなかったということですね。
私が子どもの頃に田舎で見かけた障害者の方といえば、知的障害者の方か傷痍軍人の方でした。そういう方たちがゴム紐や鉛筆を売りに来たりすると私の祖母は全部買ってあげて、しかも温泉町なものですから「お風呂入っておいで」と入蕩券をあげて、帰ってくると私たちもいっしょに食事をしていました。
そんな経験がありながら詳しい話を知らなかったんです。つまり、そばにいてもその方たちが話せなかった、もしかしたら話したくなかったのかも知れませんね。
私はいろんな形で障害者の方に出会ってきてたのに実はなんにも知らなかったと思った時に、自分のからだで知った情報は、これは伝えていくべきだと、そのために今、私がこの役目を担わされているのであれば、自分のからだで覚えた知識は、あらいざらい自分の知恵として使っていって、しかもその結果を皆様に伝えていくべきだと。とってもちっぽけなことが大きな喜びに変わっていったことがたくさんあって、そしたらこの喜びをひとりじめするのはもったいないし、みんなで分かち合いたいという思いがあったんです。
最初、講演活動のお話をいただいたときに、とてもいやだったんですね。こんなことなんで、そんなに話さなきゃいけないのかなと、私は女優なんだから芝居さえしていればいいという思いがあったんです。車椅子の生活になってから、10年生きられたらいいなと思ってたんですが、10年たったある時、私の夫が、「いいんだよ。萩生田千津子というドラマを語ればいいじゃないか。それは君のストーリーなんだから、台本も脚色しないで、”萩生田千津子物語“をしていけばいいんだよ」と話してくれた時ポーンとふっきれたんです。
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民話を通して大人の責任を担う
後藤
障害をもったことで、かえって気がついたことを伝えることがご自身の役目だと気づかれ、語り部をされているわけですが、言葉を、特に方言を大切に民話を語られているのを聞いて、素朴な人間味や人のやさしさみたいなものを伝えていきたいと思っていらっしゃるのかなと感じました。
萩生田
私たちの子どもの頃はテレビもありませんでしたし、ラジオが唯一楽しみでした。または、誰かの買った少女雑誌を回し読みするくらいです。舞台とかコンサートをするホールもない。そんななか、唯一ライブがあったんです。それはおじいさん、おばあさんの語りでした。
同 じお話を何度聞いても、茂作じいさん、おつるばあさんの話し方の違いでまったく違う話に聞こえてくるんです。ストーリーの展開がわかっていても、おもしろ くてわくわく、どきどきしながら、今日はどんな語り方をしてもらえるのかなって。あの興奮と感動は私の中にずーっと根づいていましたね。生き続けていたと いうか。
私たち物のない時代のなかで、あれほど豊かな時間と空間はほかになかったという思いがあって、民話を語ってみようと思ったんです。水上先生にせっかく語り部として戻らせていただいたのですから。
そ れともう1つ理由があります。よく、子どもの頃に年寄りたちが「昔は良かったよ」っていってたんです。それが不思議でした。そんなに良かったものを、なん で今まで残してくれなかったんだろうと。悪い時代になったんだとすれば、誰がそんなにしたんだろうと思っていました。そんな言葉をひょっと思い出したんで す。
今の子たちはかわいそうだなと、私たちは豊かだったなと、あの時に感動や喜びがあって昔はよかったなとふっと思ったんです。じゃあ、残された声であの感動を私が子どもたちに伝えていかなければいけないんだ、この役目が、大人の1人として責任を担える部分かなと。
今の子どもたちは、コンピューターだとかテレビゲームなど機械を相手に映像化されたものを目の前にしている。イマジネーションを働かせ、想像をしながらお話の場面をどうなっているだろう、どんな顔をしているだろうという作業が苦手になってきています。このままいけば、子どもたちの思考は機械を相手に映像化されたものに迫られて、心理的に強迫観念に陥っていくと思うんです。少しでも自分で考える力がつくようになんとか手助けできないものかというのが、もう1つなんです。
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失うことによって得た新しい感覚
後藤
医療界もそうですが、マルチメディアなど技術革新がどんどん進む中で、おもしろく、また便利にもなっていくわけですが、何か忘れ物をしているような気がすることがあります。
萩生田
機械をずっと相手にしていると、人間としての感をだんだん鈍くしていくところがあると思うんですね。自分が肩から下の感覚がすべて死んでいるというのは、熱い冷たいが分かりませんし、トイレにいきたいという感覚も今もってないわけですよね、そうすると人間には何か代わりのところができてくるんです。
おしっこが出そうだなというと、冷や汗が出てきて、鳥肌が立ってきて、あっ、大きい方かもしれないとか、分かるんです。何か熱が出ている、おかしいな、というと、たとえば膀胱炎、床ずれで化膿している、あとは風邪とか、そのどれかをまず疑ってみる。尿の混濁を見れば、ああ膀胱炎だなと分かるわけだし、床ずれで赤い発疹ができて少し化膿しかかっているとなればこれの熱だなとわかりますし、なにかからだにお知らせというのが絶対にあるのだなというのが私が失ったみて逆に得たものなんですね。
肩から下の失った感覚に代わって、視る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る、この五感が、新しく蘇って、新しい役目を果たしてくれるんです。
機械に頼ってだけいるとそういう感覚、イマジネイションが働かないわけですよ。患者さんが汗をかいていると、えっ、そういう時汗が出るのか、たぶん出るのでしょうというところで終わってしまう。でもその患者さんが、何かの警告を体で受けている、体のどこかが、具合が悪いよ、どこかおかしいよと訴えているという場合もあるんですよね。
つまり、視てみる、聴いてみる、嗅いでみる、味わってみる、触ってみる、このときの「みる」は私は「看る」と書くと思うのです。
後藤
失うことで得られた新しい感覚のお話は、大変示唆に富むお話かと思います。
私も、医療関係者はもっと五感をしっかりと働かせるべきだと常々思っていますが、かなり意識していないと、つい忘れがちです。
今日は、語り部としての萩生田さんとの対談でしたので、多くを語っていただくことにしました。今思っていることをお話しさせていただくと、1つは、医療関係者は、ともすると、治すことに傾きすぎて、もっというならば自分が治すという行為への喜びへ傾きすぎて、福祉の対象とされるような生まれつきの障害をもつ 子供とか、お年寄りとかの方々と共生する、共に同じ人間として生きる、という意識からちょっと違うところにあるような気がしていたのですが、そのことに改 めて気づかされました。1つの大きな課題です。
もう1つは、水上勉さんが、灰谷健次郎さんとの手紙をやりとりされている『いのちの小さな声を聞け』(新潮文庫)という本の中に、林竹二さんという、晩年定時制高校の先生をおやりになった方が、「学んだことの唯一の証は善きに変わること」、つまり、単に知識を積み重ねることだけではなく、そのことによって、自分自身が善きに変わらなければ、学んだことにはならないといっています。
私たち医療関係者は、多くの知識を学習しますが、その中で、患者さんや障害をもつ方、お年寄りの気持ちが、あるいは人間というものが解ったような錯覚をもちがちです。自分自身が障害をもたれて、心の変遷をしながら、気づき、いろいろなことを学ばれながら、何かを皆に伝えていきたいという萩生田さんの今の姿は、本当に素晴らしいと思いました。
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