筑紫次郎と人々の苦闘の跡
筑後川は大分県九重山と熊本県の阿蘇外輪山を主水源とし、熊本・大分・佐賀・福岡にまたがり流れ筑後平野を潤し有明海に注ぐ九州最大の川である。
その筑後川から田畑に水を引くために、江戸時代に作られた三連の自動水車が回っていると聞き、福岡県朝倉町を訪れた。ガッタンゴットンと水を勢いよく汲み上げているはずの三連の水車は田植えの時期に備えて休んでいた。残念がっていると近くの農家のおばさんが出てきて、あと一週間もしたら動くのにと、一緒になって残念がってくれた。
300メートルほど離れたところに三連の水車に平行して筑後川の土手が続いていた。登ってみると水車より低いところを筑後川が流れているのがわかる。
上流に目をやるとこんもりと木々が繁った小高いところがあった。そこはこの辺りの農民が江戸時代に新田を開発するために難行した山田堰だという。筑後川に堰を作って水を溜め、水位を上げ、人工的に作った堀川に水を引き込み、さらに高い畑に三連水車で水を汲み上げることを考えた。
山田堰の取水口の側には、一夜で流れを変えるといわれた筑後川を鎮守するために水神社が祀られていて、その境内に何百年もの間、筑紫次郎とあだ名される暴れ川と人々の長い苦闘の跡を見守るかのように大樟の木が立っていた。