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記憶術の達人から出た医聖の名前

三国志演義には皇帝から一兵卒まで数多くの人物が登場するが、
そんな中でも他人の口を借りて、名前だけが出される場合がある。
益州(蜀)補佐官、張松によって発せられた医師張仲景という人物は。

岡田明彦

河南省南陽の張仲景を祀る「医聖祠」三国志演義のなかに、劉備を蜀に迎え入れた張松と言う5尺足らずの男の話が出てくる。(演義60回)
この男、頭が尖っていて額が異様に前に出てい るという記載がある。記憶術に関しては当代一の優れ者で、五斗米道の張魯から蜀を救うために魏の曹操のところへ出かける。この時、張松が蜀はいかに優れて いる人物を輩出しているかを説明するときに、「医者には張仲景がいる」という。この名前はこの時一度しか三国志演義に現れない。張仲景は河南省南陽県の人で馬王堆漢墓で知られる長沙の太守を勤めていたとされ、当時流行した疫病で一族の3分の2が死亡し、そのほとんどが傷寒(熱性の病)であったため、傷寒病 について「勤めて古訓を求めて、博く衆方を採り」という態度で黄帝内経を基本にしながら様々な医療経験則を各地から集め、臨床実践の書として『傷寒雑病 論』を著した。
今でも張仲景は「医聖」と称され、南陽の東に流れる温凉河の河畔に張仲景を祀る医聖祠が建てられている。 

張仲景墓
張仲景像
張松の足跡を訪ねて双松村に入る

張松本人もまた蜀が生んだ奇才の1人で、曹操が慇懃無礼な態度で接するのに怒り、曹操が記した兵法書「孟徳新書」を自慢たらしく見せられると「こんな本は曹操の盗作で蜀の子どもたちでもそらんじている」といって、一読した孟徳新書を一字一句間違えないで暗唱して見せる。
以前に中国で気功を行っている老人に聞いた話だが瞑想を行うと、頭の上にある百会というツボの辺りが尖ってきたり、額が広くなるという話を聞いたことがある。書かれている張松の風貌を老人の話しにダブらせて、気功でいう特異効能の持ち主ではないかと勝手な解釈をして、張松の墓があるという四川省彭県双松村を訪ねた。
細い道を、小1時間ほど歩くと小さな石橋が見え、そばに粗末な祠があった。中には色塗られたなんとも素朴な千手観音が安置してあり、灯明が灯っていた。
そのわきには様々な磨崖仏が彫られていて石段の中ほどに「三昧聖境」と書かれた碑と石造りの山門があり須弥山を登る趣がある。
きっと張松もこの寺に祀られているに違いないと寺の人に聞くが、知らないというので、建て替え中の境内でぶらぶらしていると寺に遊びに来た黄映方(85歳)さんが張松の墓があるところへ案内してくれた。
張松の墓があるという場所は、辺り一面に潅木が生い茂り、その全貌を見ることが出来なかったが、黄老人は間違いなくこの場所だと力説してくれたのである。

張仲景の編纂した「傷寒雑病論」
石で作られた山門
墓に案内してくれた黄老人