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がん診療日誌 – その6

私は後悔していない。
彼女も後悔していないでしょう。

抗がん剤の治療にへとへとに疲れて来院したAさん。
Y婦長、U鍼灸師……、みんなが絡み合って高めた医療の場。
Aさんの得意な漫画には「――愛と感謝を込めて」と書かれていた。

帯津良一 (おびつ・りょういち)
1936年埼玉県生まれ。東京大学医学部卒業。医学博士。東京大学第三外科、都立駒込病院外科医長などを経て、現在帯津三敬病院院長。専門は中医学と西洋医学の結 合によるがん治療。世界医学気功学術会議副主席などを務める。著書に『がんを治す大事典』(二見書房)など多数

ホリスティック医学についてはご存知でしょうか。ホリスティック(HOLISTIC)の語源はギリシャ語のホロス(HOLOS)だといわれていますが、Whole(全体の)、Heal(癒す)、Holy(神聖な)などに関係する言葉です。

ホリスティック医学という考え方には、あまりにも要素還元主義に陥った近代西洋医学に対する反省あるいは批判として1960年代にアメリカで生まれたといわれています。

当然、その思想の根底には、「全体」というものはその構成要素の総和よりも存在意義は大きいという全体論(HOLISM)があります。つまり人間をその構成要素に分解して、その一つひとつを克明に見ているだけでは人間全体を見たことにはならない。このあたりで人間丸ごとを見る医学をつくろうではないかということなのです。

ところが人間丸ごととは何を指すのかということになるともうひとつはっきりしません。そこで今だにホリスティック医学の日本語訳がありません。カタカナのままなのです。


私自身はホリスティック医学とは「場」の医学であると考えています。体内の各細胞、各臓器は見えないつながりによって、全体として一つの「場」を構成して います。人間と人間も見えないつながりによって、コミュニティという「場」をつくり、自然環境とつながって地球という「場」をつくっています

つまり、私たちは「場」の中の存在なのです。この「場」に注目する医学がホリスティック医学であると考えているのです。場の本質を科学が解明していない現 在、ホリスティック医学はまだ科学とはいえません。だから医学と呼ぶのはまだ憚れるのですが、医療ということになると、これは本来、場の営みなのです。患 者、家族、友人、医師、看護婦、薬剤師、鍼灸師、心理療法士などが互いの場を絡ませ合いながら、自らの場のポテンシャルを高めていく。その結果、その患者 を核にした医療という場のポテンシャルが高まる。そのことによって、場の当事者すべてが癒されるというのがそもそもの医療なのです。

最近もこんなことがありました。

Aさんという悪性リンパ腫の35歳の女性が突然、しかし静かに息をひきとりました。明方のことです。突然のことでしたので、当直医は蘇生術をおこないました。そのあとでご家族と私に連絡が入りました。

私が病室に駆けつけたとき、人工呼吸器が取りつけられていましたが、すでに心臓は停止していました。本来なら、ここで人工呼吸器を取りはずし、お別れをするところですが、ご家族がまだ誰も来ていないということでそれまで、このまま維持することにしました。私はご家族が来るまでの間、Aさんのことをしみじみと思い返していました。

私の心は一片の雲もない青空のように澄みわたっていました。後悔の念はまったくありません。それどころかAさんの旅立ちを祝福したい気持ちでいっぱいでした。それというのもAさんの場と私の場がしっかりとこれ以上ないくらい絡み合っていたからなのです。もちろん私一人だけでなくほかの当事者の場も絡み合っていたのは言うまでもありませんが。

Aさんは発病後二年あまり、抗がん剤の治療にへとへとに疲れて私のところにやってきました。それまでの闘いがいかに壮絶なものであったか、Aさんの顔を一目見ただけでわかるほどでした。主な症状は貧血と呼吸困難です。貧血は悪性リンパ腫の症状が進行したためのものか化学療法によるものか、あるいはまたその両方が原因なのかわかりません。呼吸困難は縦隔のリンパ筋腫大によるものと思われました。しかし、それ以上に心の傷に深いものがあるようでした。


入院して、ビタミンCの大量点滴、丸山ワクチン、漢方薬、ハリ灸、気功、イメージ療法などをはじめました。いずれも自然治癒力にはたらきかける方法です。 彼女はみるみる元気になっていきました。本人も驚いています。私は少しも驚きません。自然治癒力の偉大さをいつも見せつけられているからです。
医療スタッフとの場の絡みもだんだん出来上がってきたようです。なかでもY婦長と、U鍼灸師とはとりわけしっかり絡んだようです。悩みごとは何でもY婦長 に相談していたようです。聞き上手は医療者の基本です。そして、U鍼灸師の外気功が何よりも好きだったようです。患者さんに好かれること。これも医療者の 基本です。因みにU君は後藤学園の卒業です。その前に北京中医学院に学び、北京に9年間も滞在して、特に気功の研鑽を積んだようです。今でも修業に怠りな く、気功の申し子のような人です。

しばらくして、縦隔のリンパ腺の腫大がみとめられました。放射線の適応です。しかし、Aさんは西洋医学的な方法はできるだけ後回しにしたいといいます。そこでアラビノキシランという健康補助食品を開始しました。ロスアンゼルスの免疫学者マンドゥー・ゴーナム博士の研究によって評価の高まっているものです。このためかどうかしばらく小康状態がつづきました。

しかし、ふたたび悪化の兆しが見えはじめました。ついに放射線治療を決意しました。近くの大学病院の放射線科にお願いしました。予定の治療が終了する直前、急に呼吸状態が悪化しました。間質性肺炎の併発です。単純に放射線によるものか、あるいは照射野外の悪性リンパ腫の進行によるものかわかりません。いずれにしてもステロイドホルモン剤の適応です。西洋医学嫌いの彼女にしてみれば、ステロイ
ドなどとんでもないという気持だったでしょう。しかし背に腹はかえられません。ステロイドの服用によって、呼吸状態はかなり改善されました。


さすがの彼女もステロイドを受け入れたようです。しかし、その後も間質性肺炎の発作をくり返し、彼女の顔がだんだん丸くなってきました。ステロイドの副作 用です。そんなある日のこと、回診しながら、ふと彼女の枕元を見ると壁に2枚の絵が貼ってあります。彼女が漫画の素養のあることはわかっていました。

1枚はラケットを持った私の漫画です。もう1枚はAさん自身です。まん丸な顔にMOON faceと書かれたTシャツにズボン姿。その横に「満月な○○より愛と感謝をこめて。」と書かれています。実にユーモアたっぷりの上手な絵です。思わず 笑ってしまいます。しかも私の持っているのはラケットではなく、中国の「気功掌」という「気」の出る扇のようなものでした。この扇で、Aさんの胸からしば しば気を入れてあげたものです。

そういえば、バーバラ・アン・ブレナンの『光の手』を愛読していましたっけ。私がロンドンから帰って、イギリスのスピリチュアル・ヒーリングの話をすると、あっという間に彼女の枕元にハリー・エドワーズの『霊的治療の解明』が現れたのには驚きました。

ご主人は彼女の選んだ道に必ずしも賛成ではなかったようです。答えぬ彼女に取り縋って悲しむご主人に言いました。

「私は後悔していません。彼女自身も後悔していないでしょう。旅立ちを静かに見守ってあげましょう。」

ずいぶん冷たい医者だと思われたかもしれません。しかし、これが場の絡みなのです。最後にご主人もすべてを理解してくれたようです。そのことは何よりも私と別れるときの彼の笑顔が物語っています。