健康維持のためにテニスを楽しんでいたのに、いつのまにかテニスエルボー(テニス肘)になって痛みに苦しんだり、市民マラソンに参加して急に腰痛になったり、ゴルフをしてクラブを思いっきり振ったら肋骨が折れたなど、身の回りのアマチュアスポーツ愛好家の間でもそういった事例をよく見聞きする。これがプロスポーツの世界になるとなおさらだ。より早く、より強く、より美しくと、人間の能力の限界に挑み、超人的な肉体を駆使して競い合うだけにアクシデントも多くなる。より賞賛を集めるアスリートほどケガや故障の危険度の高いところで活躍しているわけだ。
神奈川衛生学園専門学校の朝日山一男さんと、東京衛生学園専門学校の瀬尾港二さんは、中医学(鍼灸)を用いて、アマチュアからプロまで、スポーツ選手の身体機能維持を行っている。2人が活躍するスポーツの世界を訪ねた。
歴史ある「スポーツ鍼灸セラピー神奈川」
新体操総合日本一になった横地愛さんの演技1998年に開催された「かながわ・ゆめ国体」に向けて、神奈川県内の東洋医療系専門学校や業団など七団体が集まって組織された「スポーツ鍼灸セラピー神 奈川」には現在約70名の会員がいる。朝日山さんが教壇に立つ神奈川衛生学園専門学校では、スポーツを東洋療法の方向から見たアスレティックトレーナーの 必要性を説き、早くから日本に導入していたが、東洋医療がスポーツと関わりがあるということを広く知ってもらうために、各団体と協力して「スポーツケアス タッフ」としてスポーツ大会などに、ボランティア参加をしたのが活動の始まりだという
「一般の方に鍼灸やマッサージ、指圧、按摩といった東洋療法とスポーツがどう結びつくのかあまり理解されていませんでした」。活動当初のころのことを朝日山さんはこう話す。それから10年の間に、この神奈川県方式が広く各地に知られるようになった。
アスリートに浸透する鍼灸ケア
腰の痛みが出たハーフマラソン選手に鍼治療をする平塚市民ハーフマラソンでは、平塚陸上競技場の一角に「スポーツ鍼灸セラピー神奈川」と書かれた場所があった。「あ、ここだ、ここだ」とマラソンに参加す る高校生の一団がやってきた。彼らは以前からスタッフとの交流があるらしく親しげで明るい。最初にスタッフの前で「経絡テスト」が行われる。背中を反った り足を上げたりと簡単な動作をいくつかすることで経絡への負荷を見つけ出し、鍼治療の判断をするのだという。鍼は円皮針という小さな突起が付いた円形の接 着テープになっていて、運動時でも痛みは感じない程度の鍼だという。この鍼効果を計るための「低侵襲性の鍼による遅発性筋肉痛の軽減」という研究目的もあ り、アスリートからは鍼療法を無料で受ける代わりに、被験者の「同意書」に署名をもらっている。
難しそうな研究ですねと朝日山さんに向けると、「円皮針をしてスポーツをした後の、遅発性筋肉痛の状況や、走りやすさにどう影響したかの研究です。ですから2、3日後に必ず被験者のところへアンケート電話をして確認をとっています」。
ハーフマラソンが終わると選手たちが三々五々「スポーツ鍼灸セラピー」と書かれた部屋に集まってくる。各スタッフが自分の治療ベッドで受け持ちアスリートと相談しながらケアの方法を決めていく。「鍼ケアにしましょうか?」「エーッ、鍼ですか?」「鍼は初めてですか?」「はい、それって痛くないですか?」「大丈夫ですよ」「どうですか、痛くありませんか?」「エッ、もう鍼を刺したのですか? 痛くないです」といった会話があちこちのベッドから聞こえてくる。初めて鍼ケアを受けたという50代の一般参加の男性は「最初は少し怖かったんですが、痛くもなく、身体がポカポカした感じになってきて、リラックスしました。先生が言うように、筋肉痛が明日、楽になっているか楽しみです」。
また大学で陸上競技をやっているという学生は、「参加した大会でスポーツ鍼灸セラピーの先生がいれば必ずマッサージと鍼を受けています。それに、ここで知り合った先生の治療院でふだん診ていただいています」と言う。スポーツ鍼灸セラピー神奈川の実践により、アスリートの間に鍼灸への認知が高まり、ニーズが確実に広まっているのがわかる。
鍼灸ケア導入時のコーチの不安
同じ動作を何度も行うため疲労がたまる個人種目での北京オリンピック出場は逃したが、新体操クラブチームの雄である「イオン新体操クラブ」。そこで鍼灸ケアを行っている東京衛生学園専門学校の 瀬尾港二さんは、中医学を基にしたアスリートに対する鍼灸ケアの可能性を実感し始めていた。「アスリートが筋肉や筋などを痛めたときに鍼灸の得意な痛みの 緩和ができればと当初考えていま
したが、実際に選手と接しているうちに個々の選手の健康を維持することが大切だということが分かってきました」。
コーチの岡久留実さんは、「新しい技の完成度を高めるためには、同じ動きを何度も繰り返し練習して身につけていきます。そのため同じ場所の筋肉を酷使するわけで、その部位に過剰な緊張を引き起こしたり、大会が近づいて身体を追い込む時期だと、肉体や精神を含めた全身的な疲労の蓄積が強く出てきます」と言う。これらの過度に酷使した全身の緊張を取るために、練習後にストレッチを行うなど予防はしているのだが、蓄積した疲労をすっかり取り除くことは難しい。そこで鍼灸ケアに期待して導入を決めた。
だが、岡久コーチは鍼灸ケアを取り入れるにあたって心配したことがある。それは同じところへ鍼を刺すことで逆にその患部を傷付けてしまうのではないかという心配だった。ところが自分の病気治療のために鍼灸ケアを受けたところ、それが取り越し苦労だったと身をもって理解した。
中医学によるアスリートの全人的ケア
練習の前や後に足湯をして身体を温める。緊張が解けてリラックスする瞬間だ選手の多くは、股関節や足関節、背中の張りや痛みを訴える。それらの治療を行っているうちに、若い女性たちで構成される新体操では、女性特有の症状である「冷え性」の人たちが多いことに気がついた。
そこで痛みなどの対処療法はもとより、まずは身体の特質である冷えを取り去る方法を中医学の中から選び出し、「足湯」と「お灸」をセルフケアするように指導した。
クラブには足湯の機器が数台置かれていて、選手たちが思い思いに足をお湯につけている。見ていると皆リラックスしているようで、楽しそうに語らっている。その中に2007年11月、「第28回世界新体操選手権大会日本代表決定競技大会」において日本一の栄冠に輝いた横地愛さんがいた。横地愛さんは日本一になってすぐに現役引退を表明し、イオン新体操クラブのコーチとして後輩の指導に当たっている。「練習場は広く、とくに冬の季節は室内の温度調節が難しく身体が寒さのため硬くなることがあります。足湯をして足を温めてから運動をすると調子が良いようです」と積極的に取り入れている。
横地さんはシドニー五輪の代表選考会のとき、左足を故障して痛み止めを打ちながらの参加だったが、惜しくも2位になりシドニーへの切符を逃してしまう。そんな経験が身体に良いものは何でも取り入れようという姿勢となっているようだ。練習が終わったら若い選手たちを呼び寄せ、自ら選手たちにお灸を据えてやっている。これは選手たちのアクシデントを予防することにほかならない。
瀬尾さんの鍼ケアを受けている選手たちに聞くと、口々に「練習が終わってから鍼やお灸でケアすると筋肉の張りがあまり残らず、痛めた個所の痛みが軽減されるのが分かります。それに、きつい練習で興奮状態が続くと眠れなくなっていたのに、いまは眠れるようになった」と言う。
朝日山さん、瀬尾さんはそれぞれの場で、アスリートに対し鍼灸ケアを行っているが、二人は鍼灸ケアを通じて同じ思いに至ったようだ。スポーツの世界に鍼灸ケア、中医学の知恵を取り入れることでさまざまな将来性が見えてきている。それは中医学が内包している医療技術の深さだ。アスリートとして見る前に選手を一人の人間としてとらえ、全人的に見ることで、痛みの治療はもちろんのこと、個々の身体的状態の把握、風邪や花粉症、冷え性などの体質改善、心までも含めた健康ケアが行える。また、優れたアスリートは、一般の人よりも身体的な感受性が高く、鍼灸の良さをすぐ理解するということもあり、鍼灸ケアはアスリートの健康を支える大切なものとして理解され始めている。