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4年目を向かえる東日本大震災被災地における鍼灸師の活動を再検証

4年目を向かえる東日本大震災被災地における鍼灸師の活動を再検証

4年目を向かえる東日本大震災被災地における鍼灸師の活動を再検証 2014年9月6、7日の2日間、NGO・国際医療ボランティアAMDA(本部・岡山市)は 災害 鍼灸チームを養成するための講座を実施。 3・11東日本大震災において は、鍼灸 師たちが被災者の医療支援活動に参加したことが知られています。この経験をもとに今後も予測される大災害のもとで、鍼灸がどのような役割を果たすことができるかをテーマに行われました。

「災害時における医療活」

地域コミュニティが被災者の安心感を生んだ

植田医院院長・釜石医師会副会長 植田俊郎医師

鉄鋼の街として知られる釜石市に隣接する岩手県上閉伊郡大槌町は人口1万5222人の豊かな漁村でしたが、3・11大震災では死者数803人行方不明者数433人(平成25年7月31日)という大きな犠牲を出しました。人口39,399人の釜石市の死者888人、行方不明152人、さらに岩手県全体の死者数4672人、行方不明者数1145人だったことから考えて、被害の大きさがきわだっています。要因の1つは住民たちの避難行動の遅れでした。過去にもこの街は大津波を受けた経験がありますが、1933年昭和三陸津波の水位は3.4m、1960年の昭和のチリ地震津波では3.99mだったのに対して、3・11の水位は大槌漁港において13.6mというケタ外れの高さです。また避難を呼びかける大槌町の防災放送が、地震による停電のために使えなくなり情報が遮断されると避難の車が殺到して交通渋滞に陥るなどの不運も重なりました。   3・11当時、植田俊郎医師は自宅兼診療所が津波に呑み込まれ、避難していた屋上から患者さんや職員、家族とともに自衛隊ヘリコプターで救出されています。大槌町の医療施設は震災前、岩手県立大槌病院と6つの個人クリニックがありましたが、すべて壊滅しました。植田医師は避難所で被災者と寝起きを共にし、長崎大学、AMDA、大阪JMATなどの医療支援チームと連携しながら診療活動を続けられました。もともと医師が9人だけという医療過疎の町が、多い時には20~30人という支援の医師を迎え、「それまでの医療不足があっというまに解消された」とのことです。看護師はもちろん、歯科医師や薬剤師、さらに鍼灸師たちとも連携した手厚いチーム医療が提供されました。
植田医師は、東日本大震災は「生きるか、死ぬかの災害だった」と指摘されます。全体の死者・行方不明者は19130人、負傷者6023人で、1995年の阪神・淡路大震災の死者・行方不明者6023人、負傷者43792人と比べて、負傷者は割合としてはそれほど多くなかったからです。一方で、被災者には高齢者が多く、慢性疾患や避難所生活で募るストレスへの対応が大きな問題でした。植田医師は当時を振り返って、「狭い地域内で地元の医療者や介護関係者がみんな顔見知りだったことが避難所の被災者の安心感につながっていた」と、地域コミュニティの重要さを強調されています。

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「被災地での鍼灸活動」

津波被災直後から鍼灸師として孤軍奮闘

AMDA大槌健康サポートセンター
鍼灸院 イエローハウス健美館
プロジェクトオフィサー/佐々木賀奈子鍼灸師

大槌町育ちの佐々木賀奈子鍼灸師は震災前、大槌町で「イエローハウス健美館」という住まいも兼ねた大きな鍼灸院を経営していました。海岸から2.5km離れていて、不動産業者から「ここへは津波は来ないから」といわれて購入した場所だったのです。 3・11当日イエローハウスには数人の患者さんが来院していました。警戒警報は聞こえたものの、患者さんたちは「ここまで津波は来ないから、しばらくここにいさせて」と言っていました。

佐々木鍼灸師は子どもの頃、毎年3月3日の桃の節句に祖父母から、津波の恐ろしさを繰り返し聞かされていました。「津波は最初に水が押し寄せてくるわけではない。土埃が舞い上がるのが見えると危ない」と言われていたのです。ところが、東の方を見上げると、空一面土埃が舞い上がり真っ黒になっています。「やっぱり逃げましょう。ここも危ないから」と、患者さんたちを誘導しようとしたが、間に合わず、あっというまに高さ20mの波に飲み込まれてしまいました。
奇跡的に水の中から浮かび上がることができたあと、破壊された鍼灸院の中から、治療器具をリュックサックの中にかき集めます。打撲や脱臼、骨折などで動けなくなっている人たちの手当に不眠不休で駆け回りました。「普通ではない町の中で、私はひたすら救助作業に打ち込んでいなければ、自分を保つことができなかった」と語っています。
 震災直後に鍼治療の研究者でもあるAMDAの高橋徳医師が、緊急医療支援活動のために大槌町に到着し、地元の鍼灸師を探した結果、佐々木鍼灸師とコンタクトができました。

大槌町の高台から当時の津波の状況を説明する

佐々木鍼灸師 佐々木鍼灸師はAMDAのメンバーとして鍼灸活動を行うことになり、これまで例のなかった被災地での緊急医療チームと鍼灸師が連携した医療支援体制が成立しました。
AMDAは緊急医療支援部隊が撤退したあとも佐々木先生の鍼灸巡回治療を支援し、2012年2月には「大槌健康サポートセンター」を設立しました。佐々木先生はここで通所の保険診療の鍼灸治療を行い、毎日、15~20人程度の患者さんを迎えています。一方、寝たきりなどでセンターに来ることができない患者さんのために、出張の鍼灸治療(往療)も続けており、現在20人前後の患者さんを訪れています。「鍼灸治療を受けて効果を実感した患者さんが、新しい患者さんを紹介してくださる例も増えてきました」とのこと。鍼灸による身体と心の健康のサポートは被災地で今も続けられています。

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「災害時における鍼灸活動」

緊急医療支援チームと鍼灸の初の連携を実現

明治国際医療大学鍼灸学部臨床鍼灸学教室教授
大学院鍼灸学研究科教授AMDA災害震災ネットワーク世話人 今井賢治教授

 

今村教授と同僚の伊藤先生の2人の鍼灸師がAMDAの緊急医療支援活動部隊として初めて大槌町を訪れたのは、震災翌月の4月でした。その前に地元の鍼灸師である佐々木賀奈子さんや、AMDAの医師としていち早くこの町に入り込んでいた高橋徳医師らと一体になり、本格的に鍼灸治療が緊急医療支援チームと連携することになったのです。
被災から3週間を経て、避難所で生活する人たちの間では慢性疾患や精神的なストレスなど、内科的また心療内科的な対応が必要な患者さんが多く見られました。そのなかで腰痛、膝関節痛、頭痛、足痛、首痛、背痛などの慢性の身体症状が蔓延しており、これらの痛みを鍼灸治療の対象として行われていきました。

今井教授たちは1ヶ月間滞在し、この間、個々の患者さんに対しては、どんな訴えがあり、それは震災と関係があるかどうかなど、綿密な記録を残しました。また、治療の都度、痛みの程度の変化をイラストで表すVAS(Visual Analog Scale)スコアというもので評価しています。
これを用いて治療前と治療後で比べると、治療回数を重ねるほど痛みが軽減するという傾向が明らかになりました。今井教授は、「鍼灸治療を受けた患者さんの中には、意外と若い方も多く、鍼灸医療というものの敷居を低くしてもらえる機会になったのではないか」と話しています。
避難所ではまったく鍼灸医療について知識のない医療者も多く、治療を行っていると物珍しさから見学にきたりする光景も見られました。こうした経験から、今井教授は、鍼灸マッサージ師などのグループが治療を目的にボランティアに入ることは、現地の医療チーム活動に良い影響を与えることがあることを実感しました。そこで、被災地での鍼灸師の活動の幅を広めるためには、毎日のチームミーティングを行い、きちんと医療チームの一員として情報の共有を図ることが必要だと提案しています。一方、避難所で各医療従事者に鍼灸医療とその効果をじかに見てもらったことは、医師たちに鍼灸の保険診療への理解を深めてもらう機会になったようです。
今井教授たちは緊急支援活動を終えた後も、被災患者さんたちが健康保険で鍼灸治療を受けられるよう診療施設として「AMDA大槌・健康サポートセンター」を設けるなどのサポートを続けました。さらにAMDAは宮城県石巻市の雄勝町においても、地元の吉田保鍼灸師を雇用し、同地区での鍼灸活動を支援しています。また、AMDAは昨年夏の広島での土砂災害においても、鍼灸師や柔道整復師のボランティア活動を後方支援したことが報告されました。

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「鍼灸から統合医療へ」

ボランティアは愛情ホルモン=オキシトシンを刺激する

ウイスコンシン医科大学外科神経科教授
高橋医院長・高橋徳医師

米国のウイスコンシン医科大学教授で鍼治療の研究家でもある高橋徳医師(現在岐阜県安八郡で「統合医療」を掲げるクリニックを開業)は、3・11大震災直後緊急帰国し、3月20日AMDAのメンバーとして大槌町に入りました。大槌高校理科室などの避難所で、3週間に渡って被災した患者さんへの医療支援活動を展開しておられます。被災者には高齢の患者さんの身体疼痛の訴えが多く、主に鍼治療で対応されていたそうです。
高橋医師は、1995年の阪神淡路大震災の時も、医療ボランティアに参加した経験があり、この時、被災地で個人として活動することには限界があることを痛感し、AMDAに参加することになったそうです。1999年のコソボ紛争やトルコ大地震、2005年のスマトラ大地震などでも医療支援を経験して来られました。
米国では鍼治療を含むCAM(補完代替医療)の導入がとても盛んになっていて、国民の半数が受診した経験があるといわれます。最近ではCAMと西洋位学をうまく組み合わせて運用していこうという「統合医療」という考え方のもとで新しい医療を作ろうという動きが活発になってきました。そのなかで高橋医師は、CAMはその有効性について機序を明らかにすることが大切であると主張されます。「中国伝統医学では陰と陽のバランスを整えて気の流れを整えるということを重視していますが、これは交感神経と副交感神経のバランスを整えて自律神経の働きを正常化するという西洋医学の概念で説明できるのではないか」とのこと。さらに鍼灸の自律神経を調整する効果は、オキシトシンと呼ばれる脳内ホルモンの分泌がさかんにするということでもたらされると、その研究成果を説明しています。  ※オキシトシンは、出産時に子宮を収縮させ、分娩の苦痛を和らげる効果があり、乳腺の筋線維を収縮させて母乳をよく出す作用をもたらすとも言われます。もちろん男性の体の中でも自律神経を調整して、体調を向上させる働きがあることがわかってきています。
オキシトシンは鍼治療で知覚神経が刺激されると、それが脳の視床下部に届くことで分泌がさかんになります。またヨーガや太極拳などのボディセラピーや座禅、瞑想は、前頭葉に直接働きかけることでオキシトシンの分泌に結びつきます。さらにオキシトシンは「愛情ホルモン」とも呼ばれ、他人への思いやりの心でも分泌が促進するとのことです。高橋医師は「情けは人のためならず」という言葉を示しながら、「ボランティアに取り組む人は心身ともに健康であることが多い」と話されました。

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「医療が崩壊した町の再生への取り組み」

医療者には医療ニーズ以外にも取り組めることがある

特定非営利活動法人 雄勝まちづくり協会理事
整形外科医 小倉健一郎医師

自ら携わった「0リンクハウス」で講演をする小倉医師

小倉医師は宮城県石巻市に震災後作られた雄勝診療所で、昨年3月まで2年半近く所長を務めていました。雄勝町は3・11震災では石巻市内で最大規模の被害を出しています。震災前のこの地区の人口は約4300人でしたが、うち約3000名が家屋流出の被災をし、現人口は1000人前後となりました。3・11震災で海に面して立地していた3階建ての市立雄勝病院はまるごと津波に呑み込まれて入院患者さん40名が全員死亡し、医師2名、歯科医師1名を含めた職員28名のうち4名しか生き残っていません。他に1つあったクリニックも被災し、町は完全な無医村になりました。小倉医師は、被災後の雄勝をAMDAの医師として訪れました。そして震災から半年後の2011年9月、それまでの関西での勤務先を退職して初代雄勝診療所所長に就任し、当地に単身赴任したのです。
それまでの都会暮らしに慣れてきた小倉医師にとって、被災後の雄勝町はあまりに不便な場所でした。町の近くにはお弁当を買う場所もなく、ガソリンを入れる場所もありません。雄勝町と石巻市の中心地とつなぐ定期バスもなくなり、患者さんたちも診療所への通院には大変苦労をしていました。所長になって、まず患者さんたちを元気づけるために、楽しい待合室を作ろうと考え、「ここでお茶っこしましょう」と呼びかけました。餅つき大会や落語家に来てもらうなどのイベントも開催しています。近くに住むお年寄りたちも、自分で採ってきた海産物や手作り料理などを持ち込んで小倉医師をねぎらってくれることが多くなり、かえって自分が癒されていることを実感したと言います。

雄勝診療所には、毎日ほぼ20名の内科系疾患を中心とする患者さんが訪れていますが、だんだん腰痛や膝痛、肩こりなど整形外科系の訴えが増えてきました。小倉医師は大槌町で鍼灸医療が地域住民の保健活動を担っているのを見て、「雄勝でも高齢者のケアに当たる鍼灸師が欲しい」とAMDAに相談しました。その結果石巻市の中心地にいる・吉田保鍼灸師との医療連携が可能になりました。
さらに小倉医師は、公民館が破壊されてしまい集いの場がなくなった被災された人たちを目の当たりにして、さまざまなNPOの協力の下で「Oリンクハウス」というカフェを作ることに尽力されるとともに雄勝町活性化のために「雄勝まちづくり協会」を立ち上げ理事に就任します。「私は医者としてこの町に入ったけれど、医者としてのニーズのほかにできることがいっぱいあることに気づきました」。雄勝町を離れてもなおここで培った医療を風化させないためにも、年1回の「被災地ウォーク」を現地で開催していくと話す。

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「被災地での在宅鍼灸活動」

患者さんの生活現場を訪ねて初めて気づくものがある

吉田保鍼灸師

石巻市在住の吉田保鍼灸師は2003年7月に地元にある旭山を震源とする直下型の地震を経験していました。「いきなり下から突き上げるような揺れがドンと来た」と話す。3・11東日本大震災当日、車で在宅診療に出かけていた吉田鍼灸師はかつて経験した揺れとは違うものを感じ「なんだか変だな。強い揺れが来るかもしれないぞ」という数秒間が経過したと思うと、極めて強い揺れに襲われ、「これは大変なことになったぞ」と実感することになったのです。地割れでズタズタになった道路を走って、なんとか自宅にたどりつくとまず家族の無事を確認しました。次に行ったのはバスタブに水を蓄えてあるかどうかという確認だったそうです。前回の直下型地震の時、水の蓄えがまったくなくて、トイレに流す水まで給水車の配給を待たねばならなかったという苦い体験がありました。さらに東日本大震災の教訓も重ねたことから、吉田先生は今では普段からテレビなどでの情報収集を欠かさず、また防災セットをつねに持ち歩くようになったそうです。

3・11から1年を経過した2012年4月、吉田先生はAMDAから雄勝町の震災被災者へ往療の依頼を受けました。これに応じて3つの仮設住宅や老人施設を周りながら、身体不調を訴える患者さんたちに無料で鍼灸治療を行うことになったのです。毎週2回、2台の治療台を積み込んで35km離れた雄勝町への往療が始まりました。そして、同年8月から
仮設住宅に作られコミュニティセンターで治療する高橋鍼灸師

鍼灸治療の効果を理解してもらうことができた患者さんには、雄勝診療所の指導のもと保険診療で鍼灸を受けてもらうようになっています。
吉田鍼灸師は毎週水曜日と木曜日、それぞれ一か所ずつの施設への往療を継続しています。

狭い仮設住宅での暮らしの中でお年寄りたちには疲労とストレスが重なっており、吉田鍼灸師の治療日を心待ちにしている方も少なくありません。
吉田鍼灸師は時間が空くと、治療を終えたお年寄りを仮設住宅まで車で送り迎えに行ってあげることもあります。そんな機会に、施設で患者さんを見ているだけではわからないいろいろなことを発見することがあるそうです。例えば「どうしてこんなに膝を痛がるのだろう?」

 

と思う患者さんの住まいを訪ねた時、急こしらえの仮設住宅ではお年寄りには厳しい段差の石段があることに気づいたことがありました。さらに狭い住まいには 一日中ジッとしていることを余儀なくされる空間しかありません「住んでいる現場に行って初めてわかることがある」と知ったのです。
それ以来、患 者さんを迎えに行った時、玄関にどんな表情をして出てくるか、明るい顔をしているか、暗く落ち込んだ顔をしていないかということをまずチェックするように なりました。そいったことを理解して患者さんと接するうちに段々と患者さん同士の口コミから鍼灸医療への理解が広まってきています。

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「吉田鍼灸師から鍼灸治療を受けているK・Fさんの話

津波で被災をして家を失ったあと、仮設住宅ができるまで4ヶ月間もあり、姉や妹の家を転々としなければなりませんでした。年のせいもあって、その間に膝を痛めて正座ができなくなっていたのです。

ところが、吉田先生の治療を受けたらすっかり痛みが取れてきて、きれいに正座ができるようになりました。やっぱり私たちの年代になると、正座ができないと 困りますからね。最初、私は鍼をしたことがなくておっかなかったので、夫に「あんた受けてみなさい」と勧めたんですよ。夫が「とても気持ちがいいもんだ」 と言うので、それじゃぁというんで私も受ける気になりました。(笑い)今では毎週の吉田先生の訪問治療がとても楽しみなんです。

東京衛生学園専門学校学生・中山貴子さんの感想

私が、鍼灸師を目指そうと思ったきっかけは、東日本大震災でした。震災後、毎日のように放送される被災地を取り上げた番組の中で、ボランティアで治療にあ たっている鍼灸師を特集しているものがありました。それをみて、緊急時に治療ができ、少しでも患者さんを楽にしてあげることができる職業につきたいと思い ました。その矢先に、導かれるように現在の学校の学生と出会い、受験しました。このたびの災害鍼灸チーム育成プログラムは、私の鍼灸師になるきっかけに繋 がるものだと感じ参加させていただきました。 実際に参加して、被災地の現在や、西洋の医師と東洋の鍼灸師が実際に連携して治療を行っている場面、地元の鍼灸師の方の当時の体験など、様々な視点から見 ることができました。災害が起こった時に出来ること、やらなければいけないことなどがいろいろと分かりました。 今後この体験をもとに、災害時に鍼灸師に出来ることはなにかを考え、今から出来ることをしていきたいと思います。

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