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医療システムを考える

コスト意識が医療制度改革を推し進める

財政構造改革が進められる中で、医療制度改革が大きく動き出した。
国民にとって負担は増大することになるが、
医療へのより高度な要求を突きつけることのできる機会でもある。
また、介護保険の導入を通して、誰もが介護に参加すべき時代がやってきた。
超高齢化社会の進路は、
国民1人1人の自立と自律によって開かれるべきものである。

岩崎榮 (いわさき・さかい)
1957年長崎大学医学部卒業。69年長崎大学医学部第二内科助教授、82年国立長崎病院副院長、84年厚生省病院管理研究所医療管理部長を経て、 90年日本医科大学医療管理学教室主任教授。著・訳書に『地域医療学入門・地域医療の実践をめざして・』(第一法規)、『地域医療の基本的視座』(ベクトル・コア)、『老人ケアの実際(訳)』(メヂカルフレンド)他。

世界に誇るべき日本の医療保障制度?

日本国民の平均寿命は今や世界一となり、世界のどこの国も体験したことのない超高齢化社会を迎えている。これを支えているものの一つに、医療保障制度があることは疑いない。この保障制度には、次の3つの大きな特徴がある。

第一は1961年に生まれた「国民皆保険」の体制である。国民が必要な医療を受けやすくするために、国民誰もが何らかの保険に加入して、医療の出費に備えることになった。これは世界に類のない制度であり、国際的にも高い評価を受けている。

第二は「出来高払い制度」である。医療機関は診療報酬など、提供したサービス内容に応じて報酬を受けるようになっている。

第三は「自由開業医制度」である。医師ならどこでも、自分の希望する場所で開業できる。

出来高払い制度や自由開業医制度は、患者側から考えればフリーアクセスということになる。すなわち、いつでも、どこでも、誰でも、たやすく医者にかかれる 制度につながってきた。例えば風邪のような軽い病気でも大学病院で診療を受けることができるように、他の先進国に比べても非常に医療機関を利用しやすいシ ステムだったのである。
このように三つの特徴に支えられた医療システムは、国民の健康保持に大きな役割を担ってきたし、医療者側も恩恵に浴してきた。そして、36年続いてきたこのよき時代と制度に、今、かげりが生じている。

こ れまでの日本の医療システムを問い直すことになった大きな要因は、なんといっても財政状況の悪化である。医療がすべて保険でまかなわれるということが神話 でしかないというくらい財政は逼迫しており、変革を迫られている。その一環として、97年9月から医療保険制度改革が導入されることになった。

政府はこの制度改革を当初、21世紀の初期の段階で徐々に進めていくことを計画していたが、財政構造改革を背景に「待ったなし」という判断が働いた。おそ らく今後三年間で改革のめどを立て、来世紀初頭から実行段階に移さなければならなくなるだろう。さもなくば医療保険制度そのものが崩壊するのではないかと いう危機感がある。
制度改革の第一は、従来「サラリーマン保険」と呼ばれ、一割にすぎなかったサラリーマンの保険の負担割合を2割へと倍増させたことである。第二にこれまで必要なかった薬に対しても別負担が生じ、薬の種類が多くなるほど負担が増えることになった。
すなわちこの二大改革により、幼児、高齢者、低所得者には負担が免除されるが、一般の人たちはことごとく負担が増えることになった。これまでの日本の皆保険制度のメリットの一角が少し崩れることになるわけである。

老人ホームで

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医療不信を作ってきた「甘えの構造」

よその国から見れば非常にうらやましいとされるような日本の医療保障制度は、逆に、厳しい言い方をすれば、医療に対する「甘えの構造」を作ってきたともいえる。すなわち、健康保険証1枚あれば、フリーアクセスで、コスト意識も持たず、自分の懐をまったくいためずに医療は受けられるものという感覚があったのである。

一方では「医療の質」がおろそかにされてきたという面がある。医療サービスの質という面では、諸外国に比べてかなり低いのではないかと思われる。
それは皆保険という制度に、医療者側と国民の側の双方が甘んじ、努力しなかったことに起因する。医療者側からすれば、診療報酬制度で点数が決められていて、どんなにサービスの質が高くても報酬はその点数分しか支払われない。極端にいえば、いい医療でも悪い医療でも点数は同じだし、努力しなくても努力したのと同じ点数をもらえるというわけである。このため医療者は先進的な医療の開発や導入に意欲を失いがちだった。

一方、国民の側にも、どうせどこに行っても同じ医療しか受けられないのだという考え方が蔓延した。また、どうせ負担はそんなに大きくないのだから、何件医者に行ってもよいとばかりにはしご受診とか複数受診が行われ、最近では同じ疾病に対して平均3件の医者にかかるという事態になっていた。日本の皆保険の弊害として、いわば双方に不信感を招くということが起こってきたのである。
また、出来高払いの弊害としては、薬を出せば出すほど高い診療費が得られ、検査をすればするほど高い報酬がもらえることから、俗にいう「薬漬け」「検査漬け」が助長された。

このように、従来日本では医療に対する信頼が非常に高かったが、じょじょに不信が生じてきたのである。これは36年間続いてきた制度の欠陥が出てきたためであり、そろそろ見直しが必要な時期にさしかかっていたのである。時あたかも国が財政危機に陥っているという状況が重なり、改革に拍車がかかることになった。

 

医療の質向上につながる制度改革を

今回の医療制度改革は、従来の国民皆保険に対して、さらに合理的、効率的に病院にかかることができるシステムの構築を目指して提案された。国民側か らいえば、この制度改革によって負担が増えるという可能性が高い。「地獄の沙汰も金次第」という言葉があるが、全ての医療サービスが金で置き換えられるよ うになっていく。良いか悪いかは別にして、これにより確実に他の先進国並みになるのである。

こうした変化は、「医療は消費」、「医療も買う 時代」と考え、消費者意識やコスト意識をもって医療を受ける姿勢を目覚めさせることになる。お金がかかるとなれば、これまでちょっとしたことで大病院を訪 れていた態度を改め、医療を受けなくてすむように自分の体は自分で守るという「セルフケア」というものを身につけていくようになるだろう。

例えば生活習慣病の予防ということがいちばん重視されるようになり、第1次予防とか第2次予防といわれることに注意するようになる。暴飲暴食を避けたり、タバコをやめたり、睡眠不足にならないようにするなど、悪習慣といわれるものを改める方向に生活自体を変えていくことが必要になるだろう。もっと厳しくいえば、病気は自分が作ってしまうものだから自業自得であるという考え方もされるようになる。

また、国民は医療や健康について関心を高めて、自らそういう情報を収集するように努める必要がある。ただ文句を言うというのではなく、集めた情報を消化して、医療の現場や自分の生活の場に生かしていくという時代に入っていくと思う。
ある程度の高負担が求められるようになるのだから、これに対応して国民が望んでいる高福祉が実現されるようにならなければならない。そのためには国民側として、もっと医療の現場で人権や知る権利など、権利を堂々と主張していくべき時代にきたと思う。

一方、医療を提供する側も、理論や科学に基づく正しい医療を正しく行うことによってその対価を受け取るという、本来の姿に戻さなければならない。医療者側 はそうした国民側の要求に応えて、すべての情報を公開する「インフォームドコンセント」を実現する必要が出てきたのである。
それ故、今回の制度改 正は、医療者側と国民側の双方の痛み分けという側面がある。国民側にとっても、ここまで財政状況が悪化していると医療費の高負担はやむをえないが、その代 わりちゃんとした医療をやってくれという要求をし、医療者側に反省をうながす機会になった。今までの不信感を解消するところまでいくかどうかはわからない が、インフォームドコンセントの概念が双方に理解され、医療の質を向上させられる可能性が出てきたのである。

介護を受けるお年寄り

97年9月1日に始まる制度改正は、政府の進める財政構造改革と医療改革の第一歩であり、すべてはまだ動き出したばかりにすぎない。これから行われる改革は、従来の医療費が主にどこにかかっていたかを検証していくことになる。
例えば薬の支払いということに問題があるなら、薬価基準というものにメスを入れてこの制度を廃止し、自由価格にしたらどうかということを検討していくことになる。
また、医療費が非常に負担になっていく中で、全体の30%のウエイトを占める老人医療費の問題にも手をつけていかなければならない。70歳以上の老人といえども、定率的に医療費を負担するといった新しい老人保険制度の改革が提案されているのである。
もう1つは、今までは出来高払いだったけれど、これを包括払い、定額払いに変えるということが考えられている。財政状況のことを考えれば、質は落とせないけれど、より効率性のよい医療の展開ということが必要とされているのである。

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求められる福祉と保健と医療の連携

アメリカの病院管理学者のドナベジアンは、医療の質には三つの要素があるといっている。一つは技術的要素であり、医師や看護婦その他検査技師、多く の人たちの技術的な要素である。これに加えて人間関係的要素、アメニティ要素があげられている。この三つはそれぞれ独立するものではなく、お互いに相互作 用をしているとされる。

集団検診を受けるお年寄りたち

医療サービスの向上というのは、技術としての医療の質の向上ももちろん重要だが、一般的な医療サービスという意味で の、サービスの質を高めるということも重要になる。もっときめこまやかなサービスに転換していくとか、説明をよくするとか、患者さんの話によく耳を傾ける という配慮がサービスの質の向上につながる。それには、医療者側が医療技術と医療知識というものをもっと豊富に、幅広く持つことが求められる。

また、これからの医療は、同じ病態を持つから同じ治療法でいいだろうというふうに、患者さんを十把一絡げにするのではなく、その人の生活基盤、生活のレベルに合わせて考える必要がある。こうしたことは医師だけでできることではなく、医療関係者の連携が大切になる。つまり、福祉と保健と医療は連続性があり、同じ人間が医療の場面でも保健でもサービスを受けるのが普通である。ところが、これまではそれぞれの間にあまりにも境界がありすぎた。新しい医療制度では、このバリアーを取り払い、分断されることなく連携しながら進んでいくチーム医療が大事になる。

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すべての人が介護に参加すべき時代

福祉制度改革の中で今生まれてこようとしている介護保険法案(2000年を目指して現在国会で審議中)は、おおげさにいえばベルリンの壁が崩壊するごとく、医療界の変革を求める大きなインパクトになると思う。ここでは医師はどうあるべきかということが問われる。意識の変革がないまま新しい医療制度に参入しようとすれば、排除されるくらいのパワーが、この介護法案を通して育ち始めるのではないだろうか。

介護保険は独立して歩くのではなくて、医療保険と十分タイアップして並行して歩いていくことが重要だと考えられる。すなわち、医療の場面でチーム医療、共同体制での医療が行われるようにならなければ、本当の意味で国民側に立った介護という制度にはならないからである。介護を受ける立場の人たちは、おそらく部分的には医療問題を抱えた人たちであり、それを切り離すということは不可能であり、現実的ではない。医療に従事する人も、介護に従事する人も、こうした医療制度の中で、整合を十分考えながら、サービスする必要がある。

それ故、介護保険ができた時、ボランティアを含めてすべての国民が介護を受けたり、介護をするのだというふうに考える必要がある。従来の医療のように医療は医者や看護婦がやればいいという時代から、医療は患者さんも含めてみんなでやるのだという時代に入ってきた。従来の医療資源といわれるものはすべて動員し、すべての人が一緒にやらないとやっていけないというのが介護保険だと私は思う。

そこで、介護保険制度の運用では、あらゆる病院、施設にケアコーディネーターの存在が大きなウエイトを占めてくると考えられる。これは医療、看護、介護の質を高める役割をするものであり、医師や看護婦だけではなくあらゆる職種の人がこれになる可能性がある。この中から介護に関する専門的な教育、研修を受けた人たちのスペシャリストを作っていかなければならない。治療には医師が関わるし、看護については看護婦が携わる、介護は介護の専門家というように、いろいろな状況に応じたマネージメントが考えられる。

例えば患者さんが医療を必要としていれば、そのときは医師がリーダーになり、福祉的なものが求められている場合にはむしろ地域の介護福祉士のような人がリーダーになるという形をとるのがよいだろう。
本当にそうしたサービスが実現できるかどうかは、おそらく現場でそうした仕事に携わる人たちの意識の問題になるだろう。そのような人材を養成するには時間がかかるし、その場その場でどんどん経験を積んでいきながら養成していくことになる。

じつは介護法案は、もっと早い時期に国会を通ってもらいたかったが、それが遅れたために逆に準備期間ができたという考え方もできる。せっかく時間が与えら れたのだから、介護、医療に携わる人の意識を高め、両者共同で教育研究、研修ができるというふうにも考えられる。これにより介護保険ができた時も、よりス ムーズに制度の中に入っていくことができるかもしれない。

義務教育時代から必要な介護体験

日本には家族制度の伝統がある。私は、これは従来はよかったかもしれないけれど、介護保険の時代にはあまり強調すべきではないと思う。
これはともすれば他人を自分の家に入れないといった考え方とつながっており、これを是正していかなければ絶対に社会的介護の時代に入れないと思う。「私は絶対に在宅介護を受けたくない」という人の心の背景には「人に見せたくない」という意識がある。

これからは自分の家といえども社会資源の一つだというような感覚や教育を、学校教育の中でも育てていくことが必要なのではないだろうか。おらが家でやるとか、おらが村でやるという「おらが意識」ではなく、もっと社会全体で支え合うということを考え、自らを解放していかなければならないのではないかと思う。
外国では友人や近所の人を絶えず家庭の中に受け入れるなど、オープンハウスの考え方がある。日本の場合は貧しい住宅事情もあって、自宅を解放することは難しい。しかし、これから介護保険が進むということを考えると、自分の家に他人を迎えてもいいという雰囲気を作っていく必要があるだろう。他人が来ては困るということになると、施設に入るしかなくなり、なかなか在宅ケアが進まない。

もちろん日本の在宅医療が進まない理由は、まず制度そのものが成熟していないということもある。なんといってもマンパワーの開発が進んでおらず、ヘルパーを始めとしてまだまだ介護に携わる人の数が少ない。また、どんなに新聞などで情報が流れていても、「自分は関係ない」と思っている人が多い。介護を受けるということが現実味を帯びていないし、まさか自分が明日倒れるとは誰も思っていない。そうなってしまってからでは遅いのに、本当の意味で真剣に考えられていないし、論議されていないのである。

仲間同士で助け合うお年寄りたち

私はやはり家庭教育や、小・中・高校での介護教育の普及開発が重要な課題になっていくと思う。文部省が今とってつけたように介護体験を点数に反映さ せるということを言い出しているが、そんなものではほとんど身につかない。将来医師や看護婦、または福祉事業などのマンパワーを担うべき若者たちに、ボラ ンティアをやったことがあるか、と聞くと、「ある」という答えは非常に少なく驚いてしまう。受験体制も必要だとは思うが、それよりも介護のボランティアを 体験して人間性を養うことのほうが貴重ではないか。

36年間続いた「甘えの構造」の中で制度改革は非常に厳しいものになるだろうが、それを やらなければ、日本は超高齢化社会を生き抜くことができない。現在の経済状況の中で、これをどこまで進められるかが問題である。社会も努力しなければなら ないけれど、一人一人の努力が必要であり、それに耐えうる人間形成が求められる。

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自立と自律で見つけるべき超高齢化社会の進路

財政構造改革は、公明正大でわかりやすい形で国民の目にさらされる必要がある。じつは福祉全般、社会保障全般を抑えたいのだが、年金、福祉、医療の3つの分類からすれば、どこを抑えてどこを膨らませるかという分配の原理になる。すると、年金は削るわけにはいかないし、福祉もよりいっそう膨らませなければならないので、医療にしわよせを求めなければならないということになる。というよりも福祉と一体となった医療を進めることが必要だ。

医療不信に対する問題提起の部分を解決し、無駄な部分を解消していけば、もう少し医療費を抑制でき、その分を福祉に振り当てられるのではないかと考えられる。
その1つとして、情報の公開という時代の流れにも乗って、医療費の無駄というものが本当にあるのかないのかを、オンブズマン的感覚から見られるようにしていきたいところだ。医師側からすれば姿勢を正すということのみならず、適正な医療ということをより自覚することになるのではないかと思う。

年金問題についても、支給を遅らせることによってある程度、財政をつないでいくことができるが、今のままの給付体制を続けるとすればおそらく永続して年金を受け取れなくなってしまう。それを永続させるには社会保障の3つの分類の中で、それぞれにどの程度の割合を割り当てれば国民が納得し、もう少し質の高い社会保障にまでもっていけるのかを検討し、国民が高負担をしてもいいと納得できる社会のシステムを作らなければならない。

これからの医療も介護も、受ける人のQOLの向上を目指すものであるべきである。受ける側の満足、安心、安全がキーワードであり、これを目的にしてサービスを提供しなければいけないし、受ける側もそれを求めることができるようにならなければならない。そのためには、サービスを提供する側も受ける側も、あまりもたれあわないことが重要である。「自立」と「自律」の両方が、これからいっそうクローズアップされるのではないだろうか。

1960年代の皆保険が十分発達していない時代に、医療制度に頼れないからということでセルフケアが流行ったことがある。この意味では現在は揺り戻しの時代ということができる。一方で、これからの超高齢化社会に向けての新しい進路を見つけるということが求められるのではないだろうか。新しい価値観のもとで、医療・介護システムを整え社会の一人一人が健康なエイジングに立ち向かっていく時代である。

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