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がん診療日誌 – その2

人と人の交わりが 生み出す癒しの場

母親の見舞いに足繁く病室を訪れていたSさん、
自らががんだと知ってから4カ月、 母親と同じ病院で母親より先に逝った。
お互いの病状を気遣う母子。そしてSさんの回りには、 医療者や、様々な人が訪れ、癒しの場が生まれた。 それはSさんの生き方の証だった。

帯津良一 (おびつ・りょういち)
1936年埼玉県生まれ。東京大学医学部卒業。医学博士。東京大学第三外科、都立駒込病院外科医長などを経て、現在帯津三敬病院院長。専門は中医学と西洋医学の結合によるがん治療。 世界医学気功学術会議副主席などを務める。著書に『がんを治す大事典』(二見書房)など多数。

Sさんの本職は鍼灸師でした。しかし、私はSさんが実際に患者さんにハリを打っているところを目にしたこともありませんし、鍼灸院を開いていたのかどうかも知りません。
ただ、私が出席する、さまざまな会合や集まりのほとんどに彼も出席しているのです。東洋医学関係、気功関係、がん関係、ヒーリング関係など、それは多岐にわたっています。
いつも少し離れたところから、人懐こそうに笑いかけてきます。ただそれだけです。あまり話し合ったという記憶はありません。
年令は私より上かなと思っていましたが、実際は少し下でした。白髪で痩せ形の風貌がそう思わせたのでしょう。
そのSさんからご自身の母親のことで相談をもちかけられたのは去年の七月のことでした。「八十五歳になる母親が胃がんにかかっていて、自宅でいろいろ手を盡してきたが、まったく何も食べられなくなってしまったので入院させてもらえないか」ということなのです。
「どうぞ」ということで、Sさんのお母さんは入院してきました。Sさんに似て痩せ形で端正な顔に薄化粧をした上品なお年寄りです。自分の病気についてはまったく知りません。胃は噴門部のわずかな部分を除いてがんで占められていて、幽門狭窄の状態です。食べられないのも当然です。栄養管理のためにさっそく中心静脈栄養を開始しました。
がんの治療はというと、漢方薬をはじめ経口的な方法は役に立ちませんので、中心静脈栄養のルートからビタミンCを一日一〇グラム注入するビタミンC大量療法を中心に、身体の外からアプローチするビワ葉温圧療法を開始しました。
オーソドックスな西洋医学的方法ははじめから選択肢のなかに入ってきませんでした。病巣の拡がりからみて手術による切除は不可能です。抗がん剤も放射線もまったく期待はできません。よしんば期待できても、Sさんが希望しないでしょう。訊いたわけではないのですが、訊かないでもわかります。
気功やイメージ療法も、本人が病名を知らないのは有効な戦術とはなり得ません。だから私たちの治療法はビタミンC大量療法とビワ葉温圧療法だけです。決して十分とは言えません。その不足をSさん自身のさまざまな治療が補ってくれました。そのこともちゃんと計算に入れていたと言ってもよいかもしれません。


Sさんは三日にあげず病室にやってきます。都心からですと片道一時間以上かかりますから、これだけだって大変なのに、いつも両手に大きな荷物を提げていま す。忙しいSさんのことですから時刻も一定していません。夜暗くなってからだったり、早朝だったりいろいろです。そして、その都度、なにか薬のようなもの を置いていきます。もちろん正規の薬品ではなく、いずれも民間薬めいたものばかりです。しかも、この手の薬に詳しい方の私ですら見たこともないような珍し いものばかりです。Sさんの情報源というか人脈の豊かさに舌を巻く思いでした。
しかし、母親にこれらの薬を強要するわけでもありません。ここがSさんらしいところです。いつも同じ笑顔です。時々病院の中で私と会っても「お世話になります」と言うだけであとはいつもの人懐こい笑顔だけです。

だから、母親は「息子がまたこんなものを置いていったんですよ。私は服みませんよ。いやですよ、こんなもの」と顔を顰めています。もっともあの胃袋ではなんでもかんでも服めるというわけにはいきませんが。
Sさんの専門のハリを打っている姿は見たことはありませんが、Sさんは外気功もやりますので、おそらく外気功的な治療はやっていたと思います。患者さんの状態は悪くなるどころか、日増しによくなってきました。腹部に触れる腫瘍も少し小さくなってきたようですし、まったく何も口から入らなかったのが、水分が飲めるようになり、お粥が食べられるようになってきました。三ヵ月後には中心静脈栄養のためのカテーテルも抜去しました。


Sさんの置いていく秘薬にも少しずつ手を出しているようです。足腰がめっきり弱くなってとこぼしながら、院内を歩いているのを目にすることも多くなってき ました。私たちもひとまずほっとしましたが、Sさんも同じ思いだったのでしょう。病室詣でにも余裕がでてきたのか、三日にあげずの間隔が少し空くように なってきた矢先です。今年の四月のはじめでした。なんとSさん自身が私の隣の診察室で内科の医師に診察を受けているのです。間違いなくSさんの声だと思っ たので、隣の診察を覗いてみました。
「あれっ!どうしました」
「ここのところ、咳がひどくて、左の胸に痛みを感じたので診てもらっているところです」
と言いながら、いつもの笑顔です。  傍らのシャウカステンに掛かっている、今撮ったばかりのレントゲン写真を見て驚きました。左上葉全部を占める腫瘍です。間違いなく肺がんです。
「今、もっと詳しくしらべるために入院をすすめているところです」
と内科医が私に報告します。
「Sさん、忙しいのに大変だね」
「でも仕方ないですよ」
ということで入院してきました。とりあえずは母親と違う病棟に入りました。
一週間ほどして、私の部屋で、診断の結果とこれからの治療方針について奥さんをまじえて三人で話し合いました。Sさんは晩婚と見えて奥さんは若い看護婦さんです。
「Sさんに隠し立てしても仕方がないので、は
っきり申し上げますが、病名は肺がんです」
「やっぱりそうですか。あのレントゲン写真の陰影が全部がんですか。そうするとかなり進行していますね」
「西洋医学的方法を採るとすれば抗がん剤ですが、どうしますか」
「いや、抗がん剤をやる気は毛頭ありません。先生のホリスティックなアプローチでやってください」
「わかりました。そうしましょう。でも、Sさんご自身の情報と人脈も多いに駆使してください。とにかく、生命についてはわかっていることはごくわずかです。明日のことはわかりません。希望をもって一つひとつやっていきましょう」
ということで、今度はSさん自身の治療がはじまりました。Sさんの友人たちが入れ替わり立ち替わり現れて、ハリ灸、指圧、気功などさまざまな治療に余念がありません。チベットの秘法をやるためにベッドを窓際に移したり、有名なN先生の漢方の秘法をやるので、ほかの方法を一時ストップしたり、実におおわらわでした。もちろん、私もいろいろな方法を彼に提案しながらやってみました。それでも、病状は少しずつ進行していきました。食欲不振、体力低下、呼吸困難の症状もつよくなってきました。母親が反対にSさんの病室を見舞うこともしばしばです。やはり気落ちしたのか、Sさんの病気の進行とともに母親の病状も再び目に見えて悪化してきました。


明日は五十九歳の誕生日という日に、Sさんは静かに息を引き取りました。
わずか四カ月の闘病生活でしたが、Sさんにとって悔いのない充実した日々だったと思います。
母親、奥さん、叔母さんたち、友人の方々、そして私たち医療者すべての場がしっかりと絡み合っていました。
そして何よりもSさんは自分の死、自分の死後をはっきりと見通していたのではないでしょうか。呼吸困難に喘ぎながらも、私を見るいつものやさしい眼差しのなかに、それを読みとることができました。
母親もSさんの死にじっと耐えながら、叔母さんたちの場に支えられて生きています。