張飛は防寒、防暑のための柏の植林を考え、この遠大な事業を押し進める。
このことは当時の医学の疾病予防の考え方からも汲み取れる。
岡田明彦
張飛が植林した避寒避暑の並木道、翠雲廊蜀の戦略的位置を占める剣門から張飛が太守を務めていた閬中を結び、中原に出る駅道として開かれた往時の古道が、梓潼県というところにある翠雲廊として偲ばれる。
この翠雲廊の両側には、古柏の並木が鬱蒼と生い繁り、静寂とした駅道が断続的に40キロ程続いていて、樹齢千年を超す柏の木も珍しくない。
ここ翠雲廊にまつわる張飛の伝説があった。
張飛が築いた瓦口関この近くの瓦口関から遠くは閬中までを守備範囲にしていた張飛は、この軍道でもある駅道を使って頻繁に兵馬の移動をしていた。ところが夏の暑さや冬の寒風 が身にこたえ、病気になる兵も多数出る始末だった。当時としても情報や兵の移動の即時性が求められており、強い軍隊を維持するにはさまざまな苦労のあった ことが三国志演義の中にも出てくる。張飛は防寒、防暑のための柏の植林を考え、この遠大な事業を押し進める。このことは当時の医学の疾病予防の考え方から も汲み取れる。後漢の末に編纂されたといわれる医学書『黄帝内経素問四気調神大論篇』には四気すなわち春の温、夏の熱、秋の涼、冬の寒などの四季の気候変 化にいつも対応を怠らないようにして、疾病の予防をしなければならないと記載されている。これは兵法にも通じ、平和な時よりさまざまな要因に対し備えを怠 らないことが必要だと説くのと似ている。張飛はこのことを思って植林を行ったのではないだろうか。
現在でもこの辺りに残る言い伝えに、当時の植林のことを「午前に木を植えると午後に日蔭をつくった」とあり、すさまじい勢いで植林が行われたことがうかがえる。
翠雲廊の北段の入り口に張飛の子、張紹の像が建っていて、碑文に「魏に投降した劉禅について魏に降る時、父張飛がつくった柏並木を見て感涙に咽び、この並木を守らせるために農民組織をつくらせた」とあった。