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関羽の生地と塩の池

関羽の故郷は中国の古代医学書にもにも出てくる塩の産地河東だった。

岡田明彦

現在でも製塩されている河東の塩池関羽の故郷を訪ねようと、黄河にある潼関の渡し場に着くと、折からの長雨で黄河が増水していて足止めをくってしまった。いつ渡しが再開されるか分からないというので、150キロ東の三門峡ダムを目指した。ここには山西省側に渡れる小さな鉄橋が架けられていた。
橋を渡るともうそこは、瓦礫と赤土だらけの風景が続く中条山脈の真っ直中だった。日に何台もの車の事故が起きるという、つづら折りの山道をやっとのことで越すと、目の前に盆地が開けてきて中ほどに湖が見えた。

この湖、実は普通の湖と違い、古くから塩が採れ、古代の医学書にも出てくる有名な塩池という名の湖だった。
人間の糧でもある塩について、南北朝時代の医学者、陶弘景が西暦500年ころに編纂した医学書『本草経集注』の食塩の項に、東海・北海の塩とともに、河東の塩のことを良い塩として、医療の面から記載している。

関帝祖祠
潼関の渡しにある小さな食堂
山また山の中条山脈

河東とは、黄河の東側、現在の山東省運城市がある普南盆地一帯を指す。この塩池で採れる塩は、古代より食用や薬用として珍重されてきたことがうかがわれる。
塩池の南にある常平里下馮村という小さな村で関羽は生まれ、生家の跡に関羽を祀る関帝祖祠が建てられていた。素朴な廟でこの辺りの人々は関家廟とも呼んでいる。
村の古老は「この村には関と姓の付く家は一軒も無い」という。
その訳は、若き関羽が村人を苦しめていた悪徳塩商人呂熊を打ち殺すと、役人が関羽の罪は九族にも及ぶと触れを出し追手をかけた。
そのことを知った関羽の両親は、親思いの関羽が逃走しやすいようにと、親子の情を断たたせるため、家の井戸に身を投じてしまう。それと他の一族は、累を逃れるために、運城古村の方へ落ち延びていったからだという。
両親が身投げした井戸があったところに、悲しい逸話を祀るかのように、八角の塔が塩池を背景にして建てられていた。

運城への道
運城市のラーメン屋台
関羽の両親を記念した八角塔