「掃苔趣味(そうたいしゅみ)」とはあまり聞き慣れない言葉だが、古くは江戸の医科学者、平賀源内などが行っていた先人達の墓碑や顕彰碑を経巡ることである。そして先人達の業績について問答を重ね、その遺徳を偲ぶことを趣味としていたことに始まる。近代でも作家永井荷風なども名所古蹟をせっせと探訪している(日和下駄)。最近ではNHK大河ドラマの影響もあってか歴史散策しながらの健歩ブームを巻き起こしているが、平賀源内などはその元祖といってよいだろう。ただこうした健歩ブームの中で、日本人の疾病や健康に奮闘した医の先人達の足跡についてはあまり歩かれていないようだ。いくつかを巡ってみよう。
杉山和一と総禄屋敷跡(墨田区千歳一丁目)〜墓と鍼供養碑(墨田区立川一丁目)
両国駅近く、忠臣蔵で知られる吉良邸跡の公園から泉岳寺へ引き揚げるコースは人気の健歩コースだ。西へ2百メートルほどで回向院。墓地には戯作者で絵師の山東京伝や国学者の加藤(橘)千蔭の墓、振袖火事横死者供養塔や安政大地震横死者供養塔などもある。なかでも人気は鼠小僧の墓で、鼠小僧次郎吉は大名屋敷から盗んだ小判を貧しい人たちに分け与えたとされ、そのお金で娘が病気のお父ッさぁんの薬を買い求めたかも知れない、そんな人情話を彷彿させるのか、いまでも義賊として讃えられ、墓を削ってお守りにする信仰が残っている。 さらに西へ。余談だが両国橋の手前に赤穂浪士・大高源吾の句とされる〈日の恩や忽ちくだく厚氷〉の句碑がある。赤穂浪士は討ち入りの後、幕府に配慮して大川(隅田川)に掛かる両国橋を渡らずに南下して最初に渡った橋が竪川に掛かる一之橋であった。 この赤穂浪士にとっても縁のある一之橋を渡って百メートルほどで左手に鍼聖杉山和一を祀る江島杉山神社の鳥居が現れる。
江島杉山神社の鳥居
杉山検校頌徳碑江戸期、このあたりは一之橋は大川の一ツ目の橋で、弁天社のある惣禄屋敷となっていた。 惣禄屋敷とは江戸時代に江戸や関八州の座頭を管理していた検校の屋敷のことであり、最高執行機関の惣禄役所が置かれていた、参道には寄進者からの柵石が立 ち並び、中には赤り、日本の伝統医学各団体からのものが目につく。本殿前の二の鳥居の右に側に杉山検校頌徳碑」がある。杉山検校の胸像がレリーフされ、下 の碑文は点字が記されていた。
検校・杉山和一の生い立ち
杉山和一(1610~1694)は慶長十年に伊勢国安濃津(三重県津市)に生まれた。幼くして失明、江戸に出て山瀬検校に鍼術を学び、のちに京の鍼師入江豊明に弟子入り。厳しい修行の後、江ノ島の岩窟で岩窟祈願、霊夢を通して「鍼を管に入れ、的確にツボを押さえる」という画期的な鍼管術を考案した。(このことは中国伝来の鍼術を日本独自のものとして開花させた)その名声は高まり、寛文十年(1670)に検校に任じられる。
写真上・安置される杉山和一の石像さらに五代将軍綱吉の病気治療の功績があり、褒美をと聞かれ「目」を請うと、綱吉は粋な計らいをして一ツ目(本所一之橋脇の土地)と関東総禄検校職という 最高位を与えた。時に元禄六年(1693)、と伝わる。敷地一町四方(約一万二千平方メートル)には総禄屋敷と神社、鍼と按摩の治講習所があった。境内に あるいくつかの説明板には、おおよそ上記のような来歴が刻されている。 神社の名は、和一が信仰した弁才天の地の江ノ島を意味している。社殿の右側に江ノ島を模した洞窟が作られてあり、内には数珠を両手に持ち目を静かに閉じ 頭巾を被る和一の石像が朱に塗られた台座に安置されていた。左右の奥に 宗像三神、宇賀神(人頭蛇尾)が祀られる。ともあれ、杉山和一は鍼の神様、世界にも希に見る視覚障害者教育の開祖として地元の敬愛を受けている。その著作『療治之大概集』『選鍼三要集』『医学節要集』は杉山流三部書とよばれ、国立公文書館で閲覧できる。
和一の墓とはり供養碑(墨田区立川一丁目
ところで和一の墓だが、江島杉山神社から歩いて10分ほどの所にある。竪川沿いに東へ本所二之橋で清澄通りを越え南下、二本目を百メートル入ると弥勒寺だ。門前の石柱に「贈五位杉山検校墓所」。門を入った正面が本堂、左側に説明板、奥が墓所だ。墓碑は五輪塔で、碑面に総検校和一。隣に「医療はり供養塔」、添えられた由来記の「鍼法の薀奥を究める云々」という施療者の心構えなどは興味深い。享年84歳、碑には毎年九月第4日曜日には「はり供養」を行うと刻していた。
総検校の墓はひっそりと佇んでいた
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