最近、科学的根拠に基づく医療、いわゆるEBMが注目されている。
だが、その実体はかなり分かりにくい。
これまでの医療システムと何が違うのか、
EBMは患者にどのような変化をもたらすのか探ってみた。
吉村克己 (ルポライター)
経験や直感だけでは不十分
患者と医師は精神的に従属的(パターナリズム)な関係に陥りやすい。仮に治療方法に疑問を感じても、医師に対しては対等には意見をいいにくいものだ。しかし、医師が必ずしもあらゆる治療法を踏まえたうえで、最適の判断を下しているとは限らない。
EBM(エビデンス・ベースド・メディスン=根拠に基づく医療)はこうした状況を解決する一つの手段として登場した。早くからEBMに取り組んできた東苗穂病院(札幌市)診療部長の中山仁医師は、自らのホームページにおいてEBMをこう定義している。
「あやふやな経験や直感に頼らず、科学的Evidence(証拠)に基づいて最適な医療・治療を選択し実践するための方法論」(『EBMの実践』)
これまで医師の大半は個人的な知見に頼って治療方法を決め、患者はそれを黙って「受ける」ものだった。だが、治療法や薬剤が進歩し、いくら頑張っても一人の医師がカバーできる範囲には限度が出てきた。そこで、客観的に評価された科学的証拠を参考にして最適な治療法を選択するEBMが注目を集めるようになったのである。
とはいえ、科学的根拠があればいいというものではなく、中山医師がホームページで語っているように、その根拠をベースに「医師の経験と患者の価値観の三要素を統合し、実践していく」ことが大切だ。
中山医師はこれをわかりやすく料理にたとえ、「食材(科学的根拠)」を「客の好み(患者の価値観)」に合わせて、「料理人の技量(臨床医の力量)」で調理(臨床行為)することだと述べている(『患者さんへの説明におけるEBMの役割』)。
判断の主体は患者
厚生労働省の治験届出数を見ると、97~98年頃の落ち込みが激しい。同省はその原因として「新GCP施行」と「外国での試験結果の承認申請データとしての受け入れ拡大」などを挙げている。
新GCP とは「Good Clinical Practice(医薬品の臨床試験の実施の基準)」であり、98年4月から施行された。これにより治験を実施する際は、患者に対して文書による説明と同 意の取得を行うことをメーカーだけでなく、治験実施の医療機関および担当者に義務づけることになった。
患者側の人権と安全に対して当然ともいえる措置だが、この結果、治験が減ったとすれば裏を返せば、これまでいかに患者に対して、正確な説明と同意の確認がなされていなかったかということではないだろうか。
国内治験数の減少は、治験を実施する体制の不備や専門家の不足など環境面の問題、および日本の健康保険制度などの要因もあるが、患者に対してメーカーや医療機関が充分な情報提供を行ってこなかったツケが回っているともいえる。
それでは肝心のメーカーは自社のホームページでどのような治験情報を提供しているのかといえば、意外なことに募集情報を掲載している企業は少ない。
主要な国内製薬メーカーのサイトを軒並み見たが、トップページで分かりやすく治験コーナーを設けていたのは武田薬品工業、持田製薬、第一製薬ぐらいだった。
持田製薬広報室では、治験コーナーを設けた理由について、「医薬品の開発における治験の位置づけ、重要性をご理解いただければと考えております。治験募集の終了後も、情報提供ページとして残す予定です」と語っている。
新GCP施行後、治験参加者が減ったために、メーカーは新聞や雑誌などマスメディアによる治験募集広告を増やすようになったが、なぜ、インターネットによる情報発信にあまり力を入れていないのだろうか。
治 験ナビの「治験FAQ」では、治験参加者募集型サイトの問題点について「登録者の多くは軽症の患者で、冷やかしも多く、登録者の質が問題になる」と指摘し ている。また、告知型サイトでは「募集期間にホームページを見てもらわないといけないので、媒体特性として新聞に見劣りする」という。
個人的にボランティアとして、この治験ナビを運営している西塔京四郎さん(ハンドルネーム、医薬品業界勤務)は、「製薬企業や治験を実施する医療機関から情報を与えられるのを待つのではなく、積極的に、こちらから治験の情報を探し求めよう」という。
西塔さんは治験ナビを開設した動機をこう語る。
「現在ある『被験者募集サイト』の多くは、企業が運営しているサイトであり、基本的に製薬メーカーから資金が流れるしくみです。
こ れでは製薬メーカーの都合のよいことしかホームページ上には掲載されません。私は、より公平な立場で、いや、むしろ情報が不足しがちな患者側の立場に立っ たサイトが必要だと考えました」西塔さんは、治験情報サイトの多くには、副作用などの「有害事象」の情報が不足していると指摘する。
製薬メーカーのサイトにおいても、「一番知られたくない『副作用が発生した場合』については、その後の対応が明確に記述されていません」という。
治 験FAQでも、「重度の副作用が起こる危険性はかなり小さくなっていますが、軽度の副作用が起こる可能性はあります」と西塔さんが書いているように、いた ずらに治験の副作用を気にする必要はないが、いざ何かのトラブルが起こってしまったときにメーカー側がどのような対応をしてくれるのか患者側は不安だ。 メーカーにとってはいいたくないこともオープンにしていくことが、患者側の信頼を得ることにつながるのではないだろうか。
進むEBMの普及
こうしたEBMに対して、医師の裁量権を奪うという医師側の批判もある。しかし、中山医師は「裁量を奪うものではなく、あくまでも裁量に対する論理的明確化を求めるものだ」と述べている。 とはいえ、長らく自由な裁量で医療活動をしてきた医師にとっては、こうした考え方を「身体で」理解するのは難しいだろう。
イギリスで生まれた市民のための健康支援活動団体の日本組織であるCASPジャパンでは、こうした医療関係者のためにEBMなどのワークショップを開催している。
ワークショップでは最大10名程度のチームを作り、一つの課題についてグループワークを行い、メンバーがそれぞれの専門分野の知識や経験を活かしながら、EBMの手法について理解を深める。
また(財)日本医療機能評価機構も、EBMの普及を進めるために、厚生労働省からの委託を受けて、EBM医療情報サービスを展開している。
現在、厚生労働省の助成によって急性心筋梗塞や高血圧症、糖尿病、がん、脳梗塞など主要な疾病の診療ガイドラインが策定されているが、同機構ではこれらのガイドラインや、その基礎となる医学文献を科学的な評価をしたうえでデータベースとして整備し、インターネットなどを通じて全国の医療従事者や一般に提供する。また、学会などの団体が新たに診察ガイドラインを作成する際の支援なども行う。
患者などの一般の利用者からの質問・回答もデータベース化されていくので、利用者のニーズを把握できるだけでなく、利用人数が増えるほど使い勝手のいいシステムに「育つ」期待もある。
民間会社でも高まる関心
民間の製薬会社でもEBMに対する関心が高まっている。たとえば帝人ファーマのサイトでは「EBM とコクラン共同計画」という記事が掲載されており、人気コーナーとなっている。コクラン共同計画とはEBMの情報インフラづくりのネットワークで、イギリスから始まり、いまや医療技術の世界的な評価プロジェクトだ。
記事では日本におけるコクラン共同計画のネットワークであるJANCOC代表の津谷喜一郎氏(東京医科歯科大学難治疾患研究所)が同計画について詳しく語っている。
帝人ファーマ学術情報部の本多愛さんは「掲載から三年を経ておりますが、現在まで継続してアクセス数が多く、人気が高い」という。
帝人ファーマも自社製品の治験データを提供するなどコクラン共同計画に協力しており、EBMへの取り組みについても、本多さんはこう語る。
「治療法の有効性・安全性などに関して、その裏づけとなる臨床エビデンスが年々重要視されるようになってきています。弊社としても、自社製品に関わる情報は基本的にエビデンスに基づいて発信していきたいと考えております」
また、協和発酵も積極的にEBMに取り組んでおり、同社の医家向け医薬品の主力製品である降圧薬コニール(発売後12年)について、高血圧症を対象とした大規模な臨床試験を山口大学と共同で2003年5月から3年間をかけて行っている。同社によればこれまで発売後の降圧薬の臨床試験は一般的に100〜300例の小規模だったが、今回は合計3000例の大規模な試験になるという。
医薬業界においてこうしたEBMの動きが広がれば、副作用が少なく、より効果的な投薬や治療が可能となる。EBMは医療関係者だけでなく、患者など利用者から製薬業界まで巻き込んだ、まさに医療改革といえそうだ。
中山仁医師のホームページ
キャンサーネットジャパン
(財)日本医療機能評価機構