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東洋医学とプロスポーツの接点 – 3

野球(前編)

武田薫 スポーツライター

江川の引退劇と針治療

怪物こと巨人・江川卓がユニフォームを脱いだのは1987年11月12日のことだった。当時の監督は、昨年、ダイエー監督として日本一に輝いた王貞治であ る。王の懸命の説得に耳を貸すことなく引退に踏み切った江川の言葉を、多くの鍼灸関係者はいまも忘れてはいないだろう。読売新聞によれば、彼は次のように 発言して、憧れのユニフォームを脱いだのだった。

ホームランを打たれ肩を落とす江川選手

「昨日も言ったように直接の原因は肩です。入団4年目(82年)の夏ごろから悪くなり、自分の思うボールがいかなくなった」。肩について最も悩んだのは、11勝をあげた7年目(85年)の夏。夫人に「やめるかもしれない」ともらしたほどだが、思い直して中国鍼の治療を始めた。ファンはもちろんチームメートにも内証だった。それが効果を見せ、86年は16勝をマーク。だが、今年になり鍼の効果が持続する期間が短くなった。
天王山の広島戦の前、どうにもならなくなった。しかし、優勝をかけた大事な時期。肩胛骨(けんこうこつ)の裏の患部に直接鍼を打てば即効性はある。でも、患部周辺に打ってきたそれまでの治療と違い、投手生命はそれで終わりと鍼の先生にも言われ、来年からはプレーできない最後の治療だった。「来年は十年目。後楽園のドームでもやりたい。女房や周りの人にも相談した。でも決断して、鍼を打ってもらった」
広島戦では、小早川選手にホームランを喫し、負けた。ファンの前で涙を流した。
だが、江川選手は「あの日のピッチングは近年では一番良かった」とキッパリ言い切った。
(以上、87年11月13日付け読売新聞)

この引退前後の話を、江川はあまり語りたくないようだ。引退というプロ選手にとって最も重要なテーマは、江川に限らず、いつの時代にも周囲には推し量れない展開をするものだ。身体を中心に据えた精神と社会性との交錯は、他人に理解できないほど孤独で微妙な決断になるからだろう。そして、江川の引退には(いかにもこの男らしく)トラブルが待っていた。

長期的視点と即効性とのズレ

江川は「患部に鍼を打つと投手生命は終わるといわれた」と説明した。中国鍼はそんなにも深刻で危険な治療だったのか――大物投手の惜しまれての引退劇だっただけに、世間は同情を込めて、そんな印象を持ったのである。この波紋を敏感に察知した中国鍼関係者から抗議の声が上がった。告訴するという激しい怒りの声も出てきた。
「そこに打てば投手生命が終わるなどという鍼治療はない」
事態の思わぬ展開に、江川は動揺した。いまとなっては、すべては藪の中であるが、江川が世話になった鍼灸師は恐らくそのようなことを言ったのだろう。このことで江川がウソを言うだけの理由は見当たらない。ただ、その言い方や、江川の受け取り方にかなり個人的な部分があったのではないだろうか。
江川卓は二桁勝利を稼げなくなったら引退するという美学を持ったタイプの投手である。野球以外にも、人生で色々なチャレンジをしてみたいと考える、多才かつ多彩なキャラクターの持ち主でもあった。
彼は81年に20勝をあげたが、この引退を決意する87年には13勝。そうした心理的な要因も背景にあっただろうし、スポーツと医学の根本的な問題もそこには横たわっていたはずだ。

プロとアマで異なる対応

鍼治療が痛みを除去する、あるいは緩和効果を持っていることは日本球界では以前から広く知られてきた。ただし、その効果の意味は、治療にそれほどの時間制限のない一般患者と、治療期間が大きなカギを握るプロスポーツ選手とではかなり異なってくる。同じ野球といっても、例えばアマチュア選手とプロでは事情が違い、アマチュア野球でも高校生と社会人とでは違ってくるだろう。あるいは、プロといっても、長嶋茂雄の時代と松井秀喜の時代では、野球の持つ社会性が変わっているのだから、治療に求められる質もおのずと変わってくるはずだ。
江川卓の治療医が「1年間は必要だ」と言ったとすれば、現役九年目を迎え、後ろに桑田、槙原、斎藤といった若いエースが控えていた巨人の大黒柱にとっては、投手生命の終わりを意味したも同様なのだ。それは入団1年目の選手とは、全く違う話なのだ。
さらに勘ぐって、彼が野球界という勝負の世界にある種の限界を感じていたとすれば、医者の言葉は、もうダメだよと聞きたがっていたとも考えられるだろう ――治療行為には、普遍性と同時に、時代の中でとらえられなければならない相対性も併せ持っているということである。このバランスが、難しい。
現代社会において、プロスポーツは人々の日常生活への大きな影響力を担っている。そこには当然ながら、莫大な金も動く。そうした社会的、経済的な流れにばかり目を奪われるのは、しかし同時に、大きな危険性をも抱え込むことにもなりかねないのだ。治療は日常に根ざして進歩すべきだからであり、プロスポーツは、余りにも非日常だからである。日本の野球の将来の姿と、そこにおける選手の身体を考えるとき、野球(ベースボール)がどういった市場経済に身を置いているかを見つめ直すことは重要だろう。

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世界のスポーツ市場経済

サッカーが世界的な普及を達成しているのに比べ、野球の世界市場はまだまだ小さい。北米大陸と極東アジアに限られているといってもいいだろうが、市場の力は必ずしもエリアの大小に一致するとは限らない。例えば、サッカーは南米、アフリカに大きな力を持っているが、市場の力としては北米、アジアには遠く及ばない。技術革新が飛躍的に進められた1980年代に入ると、こうしたスポーツの国際市場での競争が激化し始めた。
まず、交通手段の進歩によって地球が狭まり、国境を越えたスポーツ興行が可能になったことがある。その一例として、年末に東京で行われているサッカーのトヨタカップを挙げてもいいだろう。ヨーロッパと南米のクラブ・チャピオンが世界一を賭けて戦う大会だが、かつては両大陸でのホーム・アウェー戦で行われていた。地元の試合での暴動などが社会問題になったことに加え、日本というバブル市場の旨味が、中立国開催という形になったのである。これも航空技術の飛躍的進歩が無ければ、かなわない興行だった。
技術革新の中で、スポーツを最も大きく変質、進化させたのが、マスメディアの革命的な進歩である。すなわち、衛星による多チャンネル時代に入ったことで、世界全地域にほぼ同時にソフト(番組)を売ることが可能になった。これによって、言語を越えた万能ソフトであるプロスポーツの価値が急騰したのは、もちろんのことだった。しかし、スポーツなら何でもよいというわけではない。世界市場を睨んだ場合、そこには当然ながら、質の高さが求められる。120年の伝統を誇るウィンブルドン、自転車のツール・ド・フランス、サッカーのワールドカップ、カール・ルイスを抱えた世界陸上……。
伝統競技を持つヨーロッパ、プロスポーツの盛んなアメリカ合衆国を中心に、売り手市場となって、放映権料がうなぎ登りに跳ねあがったことは想像に難くないだろう。
市場競争がどのように行われたかの、分かりやすい例がある。アメリカ独特のルールで行われているアメリカン・フットボールが大西洋を越えてヨーロッパに新リーグを結成したのが80年代初頭。十年後には、バルセロナで2万人の観客動員を達成している。バスケットボールは、その頃すでに南ヨーロッパからアフリカへの普及を進め、早々と中国大陸に進出の機会を窺っていた。このように各競技が普及合戦を展開する中で、野球だけが安閑として見ていることは出来ないし、現実に、見ていたわけではなかった。メジャーリーグ各球団は、それぞれのフランチャイズを抱え合衆国内で既に十分過ぎるほど忙しい市場競争を展開していたが、二つの点から国際舞台への進出を進めていった。

松坂大輔投手を観るツインズのスカウト、ノーセッター氏

まず、1975年にFA制度が確立し、選手の権利が拡大するに伴っての人件費の高騰があった。球団は国内での戦力確保に経済的限界を持ち、カリブ海諸国を 中心としたアカデミー方式の戦力補給源を求めることになった。これは、現在ではオーストラリア、東欧諸国にまで広がっている。なお、日本や韓国のプロの流 出はやや事情が違う。アジアからの戦力は完成品であり、高い買い物である。次に、そのこととも関連するが、野球の世界的レベルでの普及活動である。野球の 興味がアメリカとアジアの一部地域に限定されている限り、その将来的な展望はない。競技の面白さをヨーロッパ、アフリカの人たちにも理解してもらい、共に プレーして発展させるためには、大掛かりな普及活動が必要であり、その最も有効な手段として選ばれたのが、オリンピックだった。
野球はサッカーと 違って複雑なルールがある。アメリカ人や日本人ならいざ知らず、ゲームの面白さを理解するには手間がいる。オリンピック種目に入ることは、加盟国政府に競 技力向上の努力を促すきっかけを与えることになり、各国の競技連盟にとっては大きな財政的支援になる。84年のロサンゼルス大会、八八年のソウル大会に、 野球は公開競技として参加し、92年のバルセロナ大会から正式なメダル種目として加わった。今年のシドニー・オリンピックから初めてプロを参加させること になり、日本球界に色々な論議を呼んでいることはご承知の通りである。

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野球界にいまだ欠けるグローバルな視点

では、日本の野球界は、こうした世界戦略とどのような関係にあるのだろうか。
野茂英雄がロサンゼルス・ドジャースに移籍したのは五年前のことになる。野茂を一つの引き金にして、伊良部、吉井、長谷川、そして今シーズンからは佐々木主浩がアメリカに渡った。こうした国際交流は、しかし、ここまで述べたようなアメリカ合衆国のベースボールが展開してきた世界戦略とはほとんど関係がない。野茂、伊良部の例に顕著なように、あくまでも日本的事情が優先した。シドニー・オリンピックからプロが参加することは前述の通りだが、これに最後まで反対したのは日本とキューバ、特に日本だったのだ。日本のアマチュア球界は、アマ・プロ交流に大反対を唱えてきた。それは、日本球界が独特のシステムを国の内側に抱えているからに他ならなかった。
メジャーリーグの発展を歴史的に見ると、町の遊びから企業プロが生まれ、やがて様々なマイナーリーグが発生し、そこからナショナル・リーグ、続いてアメリカン・リーグが旗揚げして、その共存が頂点を構成するに到っている。ピラミッドを形成し、そこには歴然とした実力差がある。
一方、日本の野球は学生野球がその伝統を形作ってきた。東京・開成中学で最初の試合が記録されたのは1872年。全国中学野球大会の第1回は1915年、実業団の大会が行われるようになったのは1919年。日本職業野球連盟が発足したのは1936年。二リーグ分立が1950年――国の事情によって進化の仕方が異なるのは当たり前の話なのだが、日本の野球はピラミッドというより、アマとプロの二つの山が並立して時代を進んできている。しかも、1961年の柳川事件と呼ばれたプロの引き抜き行為を巡ってアマ・プロの関係は断絶状態になった。

高校野球は夏の風物詩

千葉茂が帰郷した折りに母校・松山商業で指導したことで選抜出場を取り上げられたのは1950年代。巨人コーチだった牧野茂が母校・明大でバント守備を教 えたことが問題になって島岡明大野球部監督が1年間謹慎したのは1964年。長嶋茂雄は立教大学にいた息子・一茂と野球の話をしなかったというウソのよう な話もあった。ここで江川の鍼治療に象徴される選手の身体健康管理への問題が出てくることは、ある程度想像して頂けるのではないか。
アマ・プロが 互いに存在を無視し、てんでんばらばらに運営されていると言うことは、選手の生身の肉体が、アマチュア野球からプロ野球へと段階的、系統的に管理されぬま まに消費されることに他ならない。特に高校野球などで若い選手の身体のケアを託されたトレーナーが、どういう方向性とゴールをもって身体のチェックをする かは、かなりの部分で個別的にならざるを得ないだろう。また、トレーナーにどれだけの発言権が与えられるかも、個々の努力と関係性という閉鎖的な枠の中で 語られていくことになる。
野球は、日本の国技である。それゆえに語るべき所は多く、多岐に渡る。今回は全般的になってしまった。次回は、現場でのいくつかの事例を取り上げたい。

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