アメリカ市民に急浸透する鍼治療
後藤学園は日本で最も早く、鍼灸教育に中医学を導入した。これは伝統ある優れた治療術を、単なる「肩こり・腰痛治療」に閉じ込めておくのではなく、全国民が幅広い領域に利用できる医療に発展させようという戦略に基づくものだったのである。その鍼灸のなかで、たとえばスポーツ鍼灸と呼ばれる分野への関心が高くなり、「スポーツ選手の故障を癒す医療から、生涯スポーツを支える医療へ」という視点を備えるようになっている。さらにアメリカでは鍼が医療費高騰を救済する役割をもつのではないかと注目を集めるようになった。広がりを見せる鍼の世界のこれからを展望していく。
統合医学としての鍼習得
アメリカ・カリフォルニア州バークレー(Berkeley)にある鍼専門の単科大学AIMC(Acupuncture and Integrative Medicine College)は、修士号取得と同時にカリフォルニア州の鍼師免許受験資格を得るための専門職大学院である。アメリカではこのような専門職の資格を得るためには、4年制の大学を卒業したあと、大学院生として専門分野の勉強をする制度になっている。同大学のブルース・スカイ・スタージョン学長は、自身がかつて鍼治療の恩恵を受けた経験をもつ。
「私は9歳のころから慢性気管支炎に苦しんだ経験があり、1年に4、5回も発作が起こったことがありました。子どものころは西洋医にかかっていましたが、ステロイド剤などの薬を処方されるだけで、対症療法として一時的な効果は得られても完治することはなかったのです」
学生時代は生化学と毒物学を学び、卒業後会社員になっていたが、「自分が生活汚染されていくのではないか」という恐怖感を覚えるようになり、太極拳や気功などを行うようになった。そんななかで、あるとき知人から鍼を勧められて治療を受け始め6ヶ月くらい続けてみると、持病の気管支炎が顕著に改善したという。
「そのときの鍼の先生に、『なぜ、どういう機序でこんなに良くなるのでしょう?』と聞いたら、『それに答えるのは、とても時間がかかる。あなた自身が鍼の学校で勉強したらどうか』と勧められたのです。そこでサンタフェにあるインターナショナル・インスティチュートという学校に入り、鍼を学び始めました。1900年に卒業して鍼のライセンスを取りましたが、そのとき担当教授から、『鍼は20年間学んで一人前』と言われました。私はまだ修行中です」
AIMC校授業風景
現在、全米で鍼の資格を取るための学校55校が認定されていて、鍼治療が合法化されている州は41州に達している。現在ではAIMの入学者には、大きく2 つの傾向がある。1つは若い年齢で入学する人たち、もう1つは1度社会に出た人が「世の中の役に立ちたい」と考えた末、鍼を身につけようと入学するケース である。
「私たちの時代、授業時間は計1675時間でしたが、現在は3370時間と2倍に増えています。なぜ時間が増加したかというと、西洋医と も連携できるように、西洋医学の勉強にかつてより重点を置くようになってきたからです。鍼灸はアメリカで医療のメインストリートの中に入ってきたため、統 合医学として学び、東西どちらの医学にも対応できるようになっています」
鍼への保険適用が焦点に
日本には1500年くらい前から明治時代まで、鍼治療はずっとメジャーな医療だった歴史がある。ところが、その日本の専門家たちは近年のアメリカの鍼の浸透ぶりに驚くことが少なくない。最近、アメリカで膝関節痛の特効薬が販売禁止になった折、患者たちはすぐに鍼治療を求めて殺到した。
「もともと西洋医学の膝関節痛治療は、痛みを発する物質に対してその働きを抑える薬を投与するといった療法です。そのため、老人がもっている複雑な関節の痛みなどに対しては十分対応できません。そうした痛みを抑える鍼の効果については、鍼師である私もよくわかっています。もちろんハイテクの薬は副作用の問題も出てきますが、ローテクである鍼にはその心配はほとんどありません。なおかつコストの問題からいっても、西洋医学に比べて鍼は明らかに優れています。西洋医学で困っている患者さんが我々のほうに流れてくるのは当然です」
アメリカは医療機関で受診する費用が日本と比較にならないほど高いうえ、日本などの先進国と同様に慢性疾患や心の病が増加している。医療費の高騰が国民のサイフも国家のサイフも圧迫するようになった。
そうしたなかで、アメリカでは、早くから代替医療が国民医療費の節約に役立つのではないかといわれている。1997年11月5日に発表されたNIH(国立衛生研究所)の鍼に関する合意形成声明書では、手根管症候群の場合、手術を受けると1人当たり8000ドルかかるのに、鍼治療では1100ドルと、6900ドルも安く上がるという見方が示された。
このように鍼治療のコストが安いことから、アメリカの民間の保険会社のなかには鍼治療の保険適用を認める例も増えている。そして、最近アメリカ政府が運営する高齢者医療保険「メディケア」も鍼治療に支払うという法案が提出された。
「鍼の大学や教育関係者は、もちろん保険が適用されることを歓迎していますが、アメリカ社会には反対の意見も少なくありません。老人保険が財政的な問題に直面しているからです。物価が高騰するなかで、国民は減税を求めているため、どうしても財源を縮小しなければならないわけです。しかし、アメリカの老人の多くはメディケアにしか加入していないので、私たちはなんとか困っているお年寄りを助けたいと思っています。そして、食べ物も含めて東洋医学がもっているセルフメディケーションがこれからますます大切になってくると考えています」