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定常型社会を豊かにする新しいケアのモデル

21世紀を迎えた現在、科学の在り方も医療モデルも
転換を迫られるようになった。
医療経済学の専門家である広井良典さんは、
日本の医療に新しい枠組みを作る必要性を提唱されている。
大きな経済成長が見込めない定常型社会にあっても、
心理的・社会的サポートや代替医療の役割分担により、
豊かさを実感できる医療が実現できるとの見方をうかがうことができた。

広井良典 (ひろい よしのり)
1984年東京大学教養学科卒業。同大学院修了後厚生省入省。医療保険や福祉に関する政府立案に関わる。マサチューセッツ工科大学大学院に留学。現在千葉大学教授。専攻は医療経済・社会保障論・科学哲学。

閉ざされた科学から開かれた科学へ

後藤

日本の医療には経済学的視点、社会科学的視点が足りないということが以前から指摘されています。広井さんは、厚生省(現・厚生労働省)で医療政策に 取り組んでおられた当時、サイエンスとしての医療だけではなく、ケアとしての医療というものを取り入れなければならないと提言してこられました。そして、 日本が従来の経済成長の時代から、定常型社会と呼ばれる時代に移ってきた今日、「医療に新しい枠組みを作ることが必要だ」と主張されています。どうしてそ うしたご提案が生まれたのかをうかがいたいと思います。

広井
私はタテ社会といわれる日本の社会をヨコに歩いてきたような面があります。大学ではもともと法律を専攻していたのですが、自分で哲学を学んだり、人 間とは何かを考えるうち、科学史・科学哲学という分野に関心を持つようになって三年生の時に転部しました。一方、セツルメントという福祉系のサークルに属 していた経験もあって、モノの豊かさよりもケアとか心が大切だという考え方を持つようになったのです。こうしたことから、当時はまだ官庁が大きな役割を持 つと思われた時代だったこともあり、厚生省に入り、福祉政策とか社会保障の仕事に携わっていました。10年を経て日本社会が大きな曲がり角に来ていること を感じ、役所でできることに限界があるのではないかと思い、自由な環境で医療・福祉政策についての研究をやりたいと考えて、96年に千葉大学に移ったのです。
後藤
医療者が専門である医学を勉強するのは当然としても、広井さんのように広く知的関心を持ち、医療全体をちゃんと見渡すことは大切な心構えだと思います。そうした意味で、医療の専門家を養成する教育について、どのようなお考えをお持ちでしょうか。
広井
最近の科学論で面白いと思ったのは、1994年にイギリスのマイケル・ギボンスという学者が提案した『モード論』と呼ばれる考え方です。この理論では、従来の研究開発の在り方を「モード1」、新しい研究開発の在るべき方向を「モード2」としています。モード1では、個別の学問分野ごとに問題を設定し、その中で理論が追究され、発表媒体も学術雑誌だけ、研究に携わるのも専門の科学者だけという外部に閉ざされたものであるとしているのです。そして、ピラミッド型の研究体制のもとで、いわば法則定立的な目標を持ち、単純な因果関係を明らかにするようなことが科学の役割とされています。これに対してモード2は、研究への参加も大学に限らず一般の市民、NPO、産業界など、様々な分野から集まり、媒体も専門だけではなく外部に対して大きく開かれることが重要だとされています。たとえば環境問題など、とても個別の科学分野だけで対応できるものではなくて、様々な分野が関わっていく必要があるというわけです。複雑系という言葉がありますが、そもそも一つの科学だけで問題が解決するということは世の中にはありえません。ですから、科学そのものに対して何らかの距離をおいて考え直すという訓練が、これからの医学教育においても必要であるといえるでしょう。
後藤
当学園では、「我々の学ぶ技術は、芸術であり、科学であり、職業でもある」というスローガンを掲げています。これまでの医療は、「科学的にはこうだから、こうしなさい」という考え方が中心になっていたのに対して、コメディカルを目指す者として、いつも「これでいいのか」という疑いを持って科学を見直すこと、素直に現象を眺めるという姿勢を持つことが大事だということを学生に言っています。広井さんはこうしたことに加えて、これからの医療には患者に対する心理的・社会的サポートが柱として重要だとおっしゃっていますね。
広井
日本の医療がたくさんの問題をかかえているなかで、最も欠落しているものの1つが心理的・社会的サポートではないか、と感じています。一昨年行った 「COML(ささえあい医療人権センター)」の会員などを対象としたアンケート調査の結果から、いまの医療には患者の治癒過程で生じる不安に対する医療者 のサポート、家族に対するサポート、あるいは何か話を聞いてくれる存在といったケアが不足している、という意見が圧倒的にたくさん出てきました。そして、 これらが充実されれば診療報酬に対する負担が少しくらい上がってもいいという意見も多数を占めています。
では、どうして日本の医療で心理的・社会的サポートが不足しているか、という原因を考えると主に2つあります。すなわち、1つは医療者や福祉に関わる人た ちの病気観や健康観、医学観にあり、もう一つは社会制度的な診療報酬の仕組みの中でそういうものが評価されていないということです。今の医療関係者は大多 数が心理的・社会的サポートを医療の周辺的なサービスであり、よほど暇な時付け足しで施したり、せいぜい慰めとして施されるものとしてしか考えていませ ん。これに対していかに正当な評価を与えていくかが問題と考えられます。

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もっと東洋医学的なものの評価を

後藤
日本では医療というのは、身体的な病気に対するものという認識が強いわけですね。そのため医療者は人間を生物としてしか診ないということが行われがちなのではないでしょうか。
広井
こうした考え方を生み出した近代の医学モデルは、17世紀に科学革命が起こり近代科学が成立して、さらに19紀に医療の体系が作られる中で生み出さ れたものです。病気には原因になる特定物質があり、その因果関係を明らかにして原因物質を除去すれば病気が治るとする「特定病因論」というものが作られま した。確かに感染症や急性疾患が中心だった時代については、こうしたモデルが威力を発揮しますが、現代のように慢性疾患や高齢者ケアが中心になってくる と、そうした特定の因果関係はほとんどありえなくなってきます。病気はストレスなどを含む心理的要因や環境、その人の社会的関係など、無限に様々な要素が 関係して起こるものです。そのことをとらえ直していかない限り、いつまでも心理的・社会的サポートが後回しになるわけです。それに比べて東洋医学や中医学 は、心と身体を分けることなく一つのものとしてとらえており、早くから心理的・社会的サポートということが認識されてきたと思います。
後藤
これまでの日本の国民皆保険の中では、患者を心理的・社会的にサポートするための技術のように、量的に量りにくいものを評価することがなかなかできませんでした。現在の経済成長を考えるとそれを診療報酬制度に組み入れていくのは難しいでしょう。そうしたなかで、広井さんは国民皆保険のしくみ自体も根本的に見直すべきところにきているというふうにお考えでしょうか。
広井
福祉や年金を含めて今の医療制度をどうしたらいいか、ということになると、税金や保険料をどうするかということを含めた社会保障全体の話になります。私自身の考え方からいえばこれからもっと「医療・福祉重点型」にすべきです。現在の経済状況を考えればあらゆる社会保障の分野を手厚くしていくというのはまず不可能だと思います。すると、どの分野は公的にしっかりサポートするか、どの分野は自助努力を求めるかという公私の役割分担を考えていく必要があるということになるでしょう。その中で年金というのは、老後の生活費がどのくらいかかるかということですから、ある程度予測しやすいことであり、基礎的な生活保障を中心に考えていけばかなりスリム化できるはずです。逆に医療や福祉はどれだけ病気になるリスクがあって、どれだけおカネがかかるかという問題になりますが、この部分は手厚くすべきだと思います。私は国民皆保険をしっかり維持していくべきだと考えており、サラリーマンの3割負担への増率や混合診療の拡大には疑問を持っています。そのなかで、医療費の水準や配分をどう考えるかが問題ですが、現在のように中医協が医療費の在り方を決定していくというのは、既得権で公共事業を決めているのと同じように硬直化しており、これを改めなければなりません。そして、ケアの部分を重視していく必要があるでしょう。また、代替医療の経済評価に関する調査プロジェクトを計画していますが、もっと医療保険の中で東洋医学的なものを積極的に評価することもこれから非常に大きなポイントですね。
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ターミナルケアに必要な死生観
後藤
これからの医療を考えるキーワードとして、「行きの医療」と「帰りの医療」という表現がありますね。すなわち、今まで医療の視線というのは、もっぱらいかに命を長くするかという「行きの医療」だったわけですが、当然人は亡くなるわけですから、長く生きている質をどうするという「帰りの医療」も大切だというわけですね。今までの医療の目的自体をちょっと変えていかなければならないところに来ているともいえますね。
広井
私自身哲学が専攻だったこともあって、ずっと死生観とかターミナルケアというものを考えてきました。その中で私が感じるのは、今の日本には「死生観の空洞化」と言われているような状況があることです。とくに高度成長期以降は、死のことを考えることはタブーのようにされてきました。これについてよく誤解されるのは、「もともと日本人は死についてあまり考えない民族ではないか」といわれることです。それはまったく間違いであり、日本人は死のことを考える文化をずっと培ってきました。たとえばアニメの『千と千尋の神隠し』のように、自然のなかにスピリチュアルなものを感じるようなメンタリティを持っていたし、そうした神道的な神々と仏教をいかに調和させるかをやりくりしてきた歴史があります。ところが、第二次世界大戦後、「日本的なものは誤りである」とばかりに、そうした日本的なものが忘れられてきました。「生をちょっとでも長くすればよい」という延命医療などが支配的になったのは、この死生観が失われているということに関係していると思います。私は、「たましいの帰って行く場所」という言葉を大変重要だと考えています。死んだあと帰る場所という意味だけでなく、心の拠り所といった意味ですが、もともと日本人が持っていたこうした考え方が死生観の空洞化によって失われたのではないでしょうか。そうした中で医療や福祉をどう考えていくべきか、それに東洋医学がどう関わっていけるのか非常に興味深いところです。
後藤
現在欧米では、東洋医学をはじめとする代替医療について医療消費者の側からの関心が非常に高くなっていますが、日本人はなぜあれほど欧米で代替医療が盛り上がっているのかよくとらえられていないところがあると思います。1つは広井さんのおっしゃる哲学的な面を代替医療や東洋医学などに求めているという点です。欧米では自分たちのライフスタイルを見直すエコロジーの思想がありますが、もともと東洋医学には「自然と一体」とか「自然の気を取り入れる」いった考え方があります。そうした部分に欧米人は強い憧れをいだいていると同時に、従来のモノ中心、消費中心の生活に飽き足らなくなったところがあるようですね。このような欧米の盛り上がりを見るにつけ、日本人である私は自分たちが忘れていたことを気づかされるような気がします。こうした欧米の代替医療の流れを見て、それを日本の医療の枠組みということに関して、どうお考えですか。
広井
現在、代替医療をどのように取り入れていくかを検討する前に、一つごく基本的なこととして認識する必要があると思うのは、医学・医療の在り方というものはその時代の病気の構造とか社会的背景に強い影響を受けるものだということです。たとえばなぜ西洋医学があれほどまでに感染症・急性疾患中心のモデルになったかというと、一つは中世にペストの大流行があったように感染症が病気の中心をなしていたことが挙げられます。もともとギリシャやローマの医学などでは、身体全体のバランスといったことを考えるなど東洋医学的なものがあったのですが、15〜16世紀の感染症の大流行を経験すると、「あんなものは役に立たない」ということになって、圧倒的に感染症中心のモデルが台頭してきました。さらにヨーロッパが一九世紀の戦争の時代を迎えて、外傷が多発してこれに対応する外科医療が感染症対策といっしょになって、先ほど申し上げた特定病因論が出来上がったわけです。さらにいえば現在のアメリカなどは、殺人といったものが死因のかなり上位を占める国であり、都市の病院などいつも救急医療などに追われているため、長寿の時代に対応した慢性疾患モデルの医学が出てきていないというところがあります。こうした要素がかなり大きいのではないでしょうか。これに対して、東洋医学や中医学は意外に慢性疾患や生活習慣病に非常に重点をおいています。
ですから急性疾患と慢性疾患のどちらか片方だけのモデルが絶対的というものではなく、その時代背景や病気の構造の中で生成しているので、その時どちらがより有効かということになるのでしょう。まさに補完的な関係ですが、おそらくこれからの日本では慢性疾患やケアが医療の中心である時代になってくるでしょう。ですから、枠組みとしては代替医療とか東洋医学的なもののほうが有効なケースが増えていくのではないかと感じています。
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豊かさを感じられる定常型社会へ
後藤
これからの新しい医療モデルは、日本でしか作れないのではないかという考え方もできますね。その日本を説明する言葉として、広井さんはよく「定常型社会」という言葉を使っておられます。これについてご説明いただけますか。
広井
この50年の日本を大きく特徴付けたものは、経済成長ということです。世の中の目標は、物質的に豊かになることであり、それが人間の幸せなのだというふうに考えられてきました。行政も、企業も、教育も、人々の意識も、すべて経済成長という目標に向かっていたわけです。今の日本が非常に行き詰まっているとか、閉塞感があるといわれるのも、成長に代わる目標を日本社会が見出しえていない、あるいは新しい目標に転換した上での社会モデルを見出していないということでしょう。そこで、私は経済成長を絶対的目標としなくとも十分な豊かさが実感できる「定常型社会」と呼ぶ社会が基本になるのではないかと考えたわけです。
こう言うと「とんでもない」というふうに受け止める人もいるかもしれませんが、ヨーロッパなどの街を歩いてみるとすでにかなり定常型社会になっています。江戸時代にイギリス人が日本を訪れた時に、「日本人はなんてゆったり暮らしているのだろう」と感じたといわれますが、現在、ヨーロッパを旅行してきた日本人は必ず「なぜ日本人はこんなにせかせかしているのだろう」と逆のことを言います。日本人は現在のヨーロッパには、時間や空気がゆっくり流れているように感じるわけです。それは労働時間とか、人々の意識や街づくり、医療福祉など、いろいろなことが関係していると思います。また、私自身がヨーロッパの街を見て印象的だったのが、高齢者の姿が目立つことです。イギリスならば、カフェとかパブ、市場などでは高齢者がとても多いのです。これにひきかえ、日本の街というのは多く若者や生産者中心に作られていて、あまり高齢者の姿がありません。
それなら日本の定常型社会は、江戸時代まで戻ることなのかというとそうではなくて、つい最近まで銭湯のようなものがあったり、川辺や縁側で将棋を指したりする場所があるなど身近なものでした。いまは高齢者がゆっくりできるそうした場所がないために、病院の待合室が社交場になっているわけです。江戸時代が低い生産水準の静的な定常型社会だとすれば、これからは経済成長が続いたあとに訪れた高い生産水準の定常型社会という時代と考えることができるのではないでしょうか。
後藤
これからの医療の中で1つ私が重要な視点だと思うのは、鍼灸師なども含めた医師以外の医療従事者=コメディカルを医療のなかで、もっと活用をはかるということではないかということです。そのためには一つはそういう人たちにも、医療費が配分されるような仕組みが作られることが大切だと思います。もう一つは代替医療に見られるように、一方的に与えられるだけではなく患者が自分からそうしたものを積極的に探し出して受けることができるように、医師の意識も変わっていかなければならないということです。アメリカでは、個人が完全に医療を選択しているし、NIH(米国立衛生研究所)も医師たちに対して、例えばがんの代替医療について、「知識をちゃんと持って、患者から聞かれたらアドバイスできるようにしなければならない」と言っています。また、イギリスでは医師会が鍼治療をちゃんと勉強したりしているわけです。
日本という国は自らはなかなか変化しにくく、外から刺激を受けるとコロッと変わったりする傾向があるわけですが、何かこういう取り組みについて、「こういうことを始めるべきだ」という提案はおありになりますか。
広井
そのためには、理念的なレベルと現実的にどうするかというレベルを分けて考える必要があるでしょう。そのうち理念的には私は4つのケアモデルを考えています。それは特定病因的なものを中心にした医療モデル、心理モデル、予防環境との関わりを重視する予防・環境モデル、福祉・介護系の人が取り組んでいる生活モデルです。それぞれ部分的な視点から人間を見ているわけですが、この四つのモデルはどれも重要です。ところが、現在の医療制度は完全に医療モデルを中心に動いており、もうちょっとケアのモデルの多様性ということを考えていくことが求められています。
先進諸国をみても医療モデルそのものを見直していくようないろいろな政策の流れが出てきました。たとえばスウェーデンやイギリスでは医師以外のコメディカルの業務を広げるような動きが出ています。あるいは心理的サポートという側面からは臨床心理士とかソーシャルワーカーなどの仕事を医療保険などで評価するという試みがアメリカとかドイツで始まっています。
東洋医学や代替医療を積極的に評価していく政策の動きも各国で始まっています。こうしたことにより医療費を節約する効果も出るわけであり、医療費の配分や医療政策のあり方自体を根本から見直すことになるわけです。日本については、あえて楽観的に考えれば、諸外国がそういうことを始めると動き出すというところがあり、これからそういう動きが活発になっていくのではないかと期待できるわけです。
後藤
本来日本にもあった素晴らしい豊かさを忘れてしまい、外国が動き始めるとあわてて後追いをするのははずかしい気がしますが、国民の健康を考えるとそうも言ってられませんね。