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中医診療日誌-24

在宅医療と伝統医学 第2回「食べること、生きること」

後藤学園付属入新井クリニックで漢方外来を担当される北田志郎医師による在宅医療の現場から嚥下障害のご報告です。

北田志郎(きただしろう)

991年東北大学医学部卒業。 その後,東京都立豊島病院臨床研修医(内科系・東洋医学専攻)を経て、 1993年東京都立広尾病院神経科 1995年東芝林間病院神経科 1997年精神医学研究所附属東京武蔵野病院 2000年天津市立中医薬研究院附属医院脾胃科に留学、その後、後藤学園附属クリニック医師として勤務 2003年より千葉県で地域医療を特徴としているあおぞら診療所で勤務。最近はとくに精神医学・中医学と地域医療と関連する研究に力を入れている。帰国した残留孤児達の心身の健康をサポートするボランティア活動などにも、積極的に携わる。

高齢になると増えてくる嚥下(えんげ)障害に対する半夏(はんげ)厚朴(こうぼく)湯(とう)という漢方処方の有用性について取り上げていただきました。脳梗塞後に誤嚥性肺炎を発症し、いったんは経口摂取をあきらめなければならなかった重症の患者さんが、この処方により口から食事する力を取り戻すことができたとのことです。

脳梗塞をきっかけに飲み込む力が急低下

会社員のCさんは60歳で定年を迎えましたが、こわれて嘱託として63歳まで働きました。それも無事勤め上げ、「これからようやく自分の時間が持てる」と思っていた矢先に脳梗塞に襲われたのです。一命は取りとめましたが、右の半身麻痺と運動性の失語が後遺症として残ってしまいました。右利きのCさんにとって、一気に不自由な生活を強いられることになります。それでもCさんはご家族の介助のもと、車椅子でいろいろな所へ出かけ、外食を楽しむことができていました。
ところが脳梗塞発症後5年経ったある日、Cさんはおでんをのどに詰まらせ、救急車で病院に運ばれました。この時は大事には至らなかったものの、これはCさんの飲み込む力が衰えたことを示すできごとでした。その後、Cさんは細菌が唾液とともに肺に流れ込んで起こる誤嚥性肺炎という肺炎を繰り返すようになっていったのです。日本における死亡原因の第4位が肺炎ですが、このうち飲み込みの力が衰えた高齢者の誤嚥性肺炎が少なからぬ割合を占めていると推測されています。Cさんの食欲は衰えなかったものの、3回目の肺炎を起こして入院した時、病院の主治医は「必要な栄養を経口摂取だけでまかなうことはもはや不可能」と判断せざるを得ませんでした。
近年ではこうした場合、本連載の第1回目に登場したA君のように「胃ろう」を造設し、チューブを通して流動タイプの栄養剤を注入することがよく行われます。しかし、Cさんは59歳の時に早期胃がんのため胃の亜全摘手術を行っており、そのため胃ろうを造ることができませんでした。そこで、細いチューブを鼻の穴から喉、食道を経由して胃まで挿入し、このチューブから流動タイプの栄養剤を送り込む「経鼻経管栄養法」で栄養を摂取することになったのです。こうして69歳の春、Cさんは自宅に退院し、同時に私たちの訪問診療、訪問看護を受けることになったのです。

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ヨダレが著しく経口摂取は中止へ

初めてCさん宅の居間にうかがうと、まず真正面のベッドに上体を起こした姿のCさんの目と合いました。こちらをにらみつけてくる様な目です。これまで夫人と平日フルタイムで働いている娘さんの介護だけで生活してきたCさんにとって、(私たちは援助者といっても初めてお家に上がりこんできた赤の他人と思われたことでしょう)これまでの病苦に加え、鼻から喉を通って24時間留置されることになったチューブも、大変うっとうしいものでしょう。
それに加えてCさんは失語症のため喋ることができなくなっていたのです。その表情には不安や警戒心、そしていらだち、怒りといった感情がもどかしさのなかに表れていました。
Cさんは「口から食べる」という意欲はたいへん強く、せめて1日1食は経口摂取をさせたい、という夫人の意向もあって、1日に必要な栄養量は朝夕2回の経管栄養でまかない、昼食にはゼリー食など、のどの通りがよく誤嚥しにくい食品を少量ずつ摂るというのが退院時の設定でした。しかし、Cさんの口には常にヨダレが溜まっていて、喉元には始終痰がらみの音がしている状態です。実際にゼリー食を食べてみていただいても、Cさんの嚥下の力はとても弱く、危なっかしいものでした。
チューブに注入していく水分の量が、Cさんの処理能力を超えてしまっている様子が見られたことから、水分量を徐々に減らしてゆくこととしました。そして、訪問看護師が食事の時の姿勢の取り方、家族による食事介助のコツ、口の中のケアなどを含めた「嚥下リハビリテーション」の指導をして行きました。
ところが、次の週、Cさんは早くも誤嚥性肺炎を起こしてしまいました。抗生剤の点滴を往診と訪問看護で5日間行った結果、なんとか病院に逆戻りすることなく肺炎は治癒させることができましたが、この段階で私はついに「経口摂取は休止」と判断せざるを得ませんでした。

半夏厚朴湯注入3か月でチューブ抜去可能に

なんとか再びCさんに口で食べてもらえるようになってほしいと思い、漢方薬の利用を考えました。ただしこの方法は、経管栄養を行っている患者さんには、顆粒状の漢方エキス剤をお湯に溶いてチューブに注入することになります。お連れ合いに、「お世話するのに一手間増やしてしまうことになりますが、漢方薬を試してみませんか?」と提案し、夫人は「夫の状態が少しでも好転するなら」と承知して下さいました。もちろんCさんにご異存はありませんでした。
漢方を処方するにあたって漢方的診断を行うと脈は細滑。舌は胖大で色は淡暗紅、舌苔は白厚膩。この時選択した薬方は半夏厚朴湯エキスでした。顆粒はしっかり溶かさないとチューブ閉塞の原因となりかねません。ご家族と相談の上、湯飲み一杯分のお湯でエキス剤を溶かし、よく混ぜたのちに更に電子レンジで1分程度加熱し、少し冷ましてから注入してもらうことにしました。
この方剤を用い始めてほどなくは「ヨダレが少なくなった」「痰がらみも減った気がする」という感触を夫人から聞くことができました。そこで最大限の注意を払いながら、ゼリー食を経口で食べていただきましたが、誤嚥性肺炎は起こりませんでした。
そのことがはっきりと確認できたのは8週目の時で、経鼻チューブの交換を行うと、それまでの交換時には、チューブを喉まで進めてもなんの抵抗もなかったのが、Cさんは盛大にむせ、交換にかなりの手間がかかったからです。このことは嚥下物が気道に入りそうになると起こる嚥下反射が回復してきていることを示唆しているからです。こうしたことから私は「お口から食べる量を増やしてもよいのでは」とCさん夫妻に告げました。
さらに1ヶ月後、とうとうチューブを抜去し、食事を自分の口から経口することができるようになったのです。さらに往診にうかがうと、Cさんが満面の笑みを浮かべて待っていてくれました。「昨日は家族でファミリーレストランに行って、好物のネギトロ丼を食べたんです」と夫人は嬉しそうに話してくれました。Cさんも横でニコニコしながらうなずいています。半夏厚朴湯の効果に加え、口腔ケア、嚥下リハ、食材選びと調理法、食事介助の方法、などをご家族が熟練していったことも奏効したようです。
「次はアワビが食べたいんでしょ!」
夫人の声が弾んでいます。昨年の夏が終わり、アワビの旬が始まろうとしていました。

利用の目安は舌の白膩苔(はくじたい)

半夏厚朴湯は、水液の代謝がうまく行われないことによって生じる中医学でいう”痰飲”という病態が、上部消化管や気道の機能を損なっている状態に対し用いられる方剤です。この飲み込み力の衰え(嚥下障害)と半夏厚朴湯との結びつきを同窓の畏友である岩崎鋼氏(東北大学先進漢方医学講座)が研究しており、Cさんとの出会いに先立つこと5年ほど前、私もその研究の一部に参加していました。
私は、当時精神病床が主体の大規模病院に勤務し、精神障害を持つ患者さんが身体の病気に罹られた際に専門医療を提供する「精神科身体合併症病棟」のチーフを務めていました。その病棟には、認知症があるゆえに一般の病院で治療困難とされた方も転院してくることが少なくなく、「認知症性疾患治療病棟」の病棟医も掛け持ちしていたのです。その病棟で患者さんに半夏厚朴湯を飲んでいただき、前後での嚥下能力を比較していました。研究成果は後述する文献にまとめられていますが、原疾患にかかわらず多くの患者さんの嚥下能力が改善していきました(*)。また、「精神科合併症病棟」には、強力精神安定剤の副作用である薬剤性パーキンソン症状の一環としての嚥下障害を持つ方が、しばしば誤嚥性肺炎で転棟転院してきました。絶飲食の上抗生剤を点滴して肺炎が治癒したあと、いつから経口摂取を再開するか、という状況において、まず半夏厚朴湯を飲んでもらってから再開することで、ほとんどの方が再誤嚥を起こすことなく治療を終了させることができていました。それらの経験を踏まえて、私はCさんにこの方剤を処方したわけです。
もちろん「嚥下困難には半夏厚朴湯」と言うだけでは中医学の実践とは言えなくなってしまいます。やはりこの方剤を用いる際の必要条件は舌に白膩苔があることでしょう。実際嚥下障害を持つ多くの方にこの白膩苔があり、半夏厚朴湯の使用、嚥下能力の改善とともに苔が薄くなっていくことがよく見受けられます。そして苔が薄くなり、舌の地の状態が観察できるようになったら、同剤のやめ時です。特に高齢者の本虚の多くに陰虚がからんでいることから、漫然と用いることは慎まなければなりません。ちなみに、Cさんの場合はその後もずっと白膩苔のままでした。
Cさんはそれから半年の間、一度も誤嚥性肺炎を起こさず過ごしました。ご家族が召し上がる食事に、さらに食べやすく一手間加えただけのものを召し上がるようになり、Cさんの満足度は大いに上がり、ご家族の介護負担は大いに減りました。経鼻チューブ交換を含めた経管栄養管理もなくなり、臨時往診もないので診療費も縮減され、飲んでいるお薬は半夏厚朴湯エキス1日2包だけなので医療費も安くなっています。

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* Iwasaki, K., Kitada, S., Kitamura, H., Ozeki, J., Satoh, Y., Suzuki, T., Cyong, JC. and Sasaki, H. : A Traditional Chinese herbal medicine banxia houpo tang improves cough reflex of patients with aspiration pneumonia. JAGS. Oct;50(10):1751-2, 2002.