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幻の看護書『病家須知(びょうかすち)』が現代に甦る

「医者三分、看病七分」を説いて医療における看護の重要性を啓蒙した江戸後期の漢方医・平野重誠。その幻の著書『病家須知』が、このたび看護史研究会の手によって翻刻された。近代看護の祖ナイチンゲールがクリミア戦争で活躍する20年余り前に成立した同書には、自然治癒力を重視した医療が唱えられ、現代にも通じる看護のあり方が示されている。

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プロフィルテキスト


『病家須知』に描かれた安眠をとる方法。(写真アタリ)
平野重誠(1790~1867年)は武士出身の漢方医で、官職には就かず江戸薬研堀で開業し、町医者として庶民のための医療に尽くした人物である。彼は、医療における看護の役割を「医者三分、看護七分」という言葉で表現し、家庭看護の重要性を庶民に啓蒙した。
江戸時代、一般的な日本の医療には病院に入院して治療や看護を受けるといったシステムはなく、病人は医者の往診を受け、家庭で家人の看病を受けながら療養するという在宅医療が中心だった。そのため、病人にいちばん身近な家人が看病人の役割を負っていたわけである。
1832年(天保三)、重誠が著した『病家須知』(全8巻)には、こうした医療状況のなかでの医者への関わり方、病人の心構え、看護人の心得、産婆(現在の助産婦)技術の大切さなどについて書かれている。
看護史研究会代表・坂本玄子(みちこ)さんのグループは、研究会発足50年を記念して、現代医療、とくに現代の看護観に通じるこの江戸の医学書の復刻に取り組み、このたび翻刻訳注篇(上・下)に研究資料篇を加えた全3巻のかたちで農山漁村文化協会から刊行した。
重誠は、ギリシャの医聖ヒポクラテスにも通じる強い倫理観の持ち主で、その医師としての信条を次の7ヶ条に表している。

1、人の命は尊く重いものである。
2、医は重大な大任をもっている。
3、勉強や研究が必要である。
4、私心をもたない。
5、言行一致、内外一致。
6、医技は常に訓練が必要である。
7、病治は人の病苦をわが身に引き受けて行う。

(革谿医へんより―中村節子訳)

彼が活躍した時代には、オランダ医学が流行していた。そうした世相に対し、良い側面は尊重しながらも、「オランダ人の言うことが全て正しいかのようなことを言って惑わし、オランダ薬の実験台にさせ結局はその害を被るものが多い」と、その偏重ぶりには警告を発している。こういうことからも洞察力の優れた倫理観の強い医師像がうかがえる。

看病人が注意しなければならない3つの心得

看病する人は病人の飲食、寝起きの介抱や薬の世話だけでなく様々なことに注意を払う必要がある。『病家須知』の中で、重誠は次のように述べている。

1、病気になる前に、その前兆ともいうべき精神状態の異変などを見つけ心のケアを行う。

2、すでに病気にかかっている人にはその原因を考え、腕の立つ医者の診察と治療を受けさせる。初期の段階で処置ができればたいていの場合悪化することはない。

3、病気が進んで気力や食欲が減退し寝起きができない場合は、薬の力を頼むことは当然だが、それでも看病人の善し悪しによって病状の改善はずいぶんと違ってくる。

病人は家族の中から出るわけで、日ごろ身近にいる家族が悩み事を持っていないか、気が落ち込んでいないか、そういった状態から表れる顔色の青ざめや、ぼんやりしている状態、身体が冷えているかなど日常的なシグナルを見落とさず声をかけ、心を通わすことを勧めている。
また病気になってしまったときは、看病人は良い医者を選んだうえに、医者に対して発病時の状態から事細かく説明することが大切であるという。看護人が自分勝手に診断を行ってそれを医者に伝えることを戒め、病人の食事の量、睡眠状態、便通の状態、服用している薬の内容、いままでにかかった病気などの情報を細大漏らさず提供して医者の判断を仰ぐよう説いている。
病人の食事方法などについても、食事と薬の飲む時間の間隔を開けることや、病人の食事の分量を控えめにすることなどとともに、食事の量と排便の量の観察をし、便の回数だけではなく、色、形態、匂いなど事細かに観察することを勧めているのは現代の看護と遜色がない。

自然治癒力を求めた看護法

ナイチンゲールは患者の自然治癒力を引き出すことを看護の柱にした。彼女は「看護がなすべきこと、それは自然が患者に働きかけるに、最も良い状態に患者を置くことである」と説いたが、それはすなわち、新鮮な空気や陽光、暖かさ、清潔さ、静けさを整えこれらを活用し、食事内容を適切に選択し、適切に与え、患者の生命力の消耗を最小限にとどめることである。
重誠の医療の根底には東洋医学を基にした自然治癒力という考え方があり、環境をも重視した看護法と見ることができる。たとえば、四季の温度の移り変わりにも気を配り、病人の居室の換気に気をつけて、汚れた空気を外に出し、清浄な空気を取り入れることや、ときどき部屋替えをして掃除をし、清潔さを保ち、病人の寝衣を取り替え、看病人も入浴をして衣服も清潔なものを着るように心がけるなど、ナイチンゲールとの共通点も多い。
また重誠は病人特有の心の働きにも目を向けるよう看病人に喚起している。病人には安眠をとることを勧めているのだが、病気のときは雑念が起きやすく、目は眠ろうとするが心を悩まし寝ていても安らぐことがないという状態を危惧している。これの解消法として、重誠も試して効果があった睡眠の術を教えている。
それは、静かな部屋に水を張った桶を持ち込み、そこから雨だれのように、ぽたりぽたりとしたたる水音をたらいに受け、病人に数えさせることで、雑念を払い、心を平静にさせ、穏やかな眠りに着かせる方法である。波の音や川のせせらぎを聞かせる現代のヒーリングミュージックに通じるものを感じさせ、彼がアイデアマンであったことをうかがわせる。
重誠は自然治癒力を高めるために平素からの養生法にも力を入れていた。食療法はもちろんのこと、正しい姿勢を保つ運動法、呼吸法、一
人按摩や、寝ながら歌をうたって胸、腹、腰、四肢をマッサージし、息を臍下丹田におくることで病を癒す方法を、女性や子供、老人、病人までが行いやすいように図解を添えて紹介し、病を引き起こさないよう日ごろから努めることを提案している。