中医学理論が鍼灸の裾野を拡大させる
後藤学園は日本で最も早く、鍼灸教育に中医学を導入した。これは伝統ある優れた治療術を、単なる「肩こり・腰痛治療」に閉じ込めておくのではなく、全国民が幅広い領域に利用できる医療に発展させようという戦略に基づくものだったのである。その鍼灸のなかで、たとえばスポーツ鍼灸と呼ばれる分野への関心が高くなり、「スポーツ選手の故障を癒す医療から、生涯スポーツを支える医療へ」という視点を備えるようになっている。さらにアメリカでは鍼が医療費高騰を救済する役割をもつのではないかと注目を集めるようになった。広がりを見せる鍼の世界のこれからを展望していく。
中国鍼灸の守備範囲の広さにびっくり
後藤学園中医学研究部の兵頭明部長が、中医学の内科学を学ぶために北京に留学していたのは1980年代の前半のことだった。中医学の漢方診療はかなり専門分化していて、それぞれの医師が自分の守備範囲で特定の疾病にアプローチすることで、高い治療成績を上げるようになっている。とくに北京には医療施設も治療家も薬剤も豊富に揃っており、ほとんどの疾患に万能に対応しているのを知った。さらに、研修で病院に入って鍼灸科をのぞく機会が得られたとき、兵頭は中国鍼灸が医療の最前線で用いられる様子を知り、圧倒されることになったのである。
「びっくりしたのは、中国では鍼灸であらゆる疾患に対応しているということでした。どんな疾患の新患も鍼灸科を訪れるし、漢方薬で治らなかった患者も最後 に鍼灸科を訪れる。弁証論治を把握していれば、人がどのように病んでいてどのように治せばいいのかという考え方は共通しているので、漢方薬と鍼灸が連携し 合うことができるわけです。漢方が専門化しているのに対して、鍼灸は『雑病科だ』と気づき、『これはすごい』と思いました」(兵頭)
中国では現代西洋医学が上陸する以前から、鍼灸はメジャーな医療だった。初期のプライマリーケアにも対応すれば、末期のターミナルケアも鍼灸が受け持って きたのである。そして、北京の近代病院の中では、現代も鍼灸がその幅広い守備範囲を見せつけていた。1980年代後半に中国へ留学していた中医学研究部統 括の瀬尾港二研究員も、「そもそも中国では『鍼灸が肩こりや腰痛によい』という話は聞いたことがありません」と語っている。
一方、日本で鍼治療といえば、もっぱら肩こり・腰痛・膝関節痛の「三大疾病」に対応する治療法と受け取られていることが多い。瀬尾研究員が、後藤学園のは りきゅう臨床施設の受療者を対象に行った調査でも、疾病名はほとんど三大疾病で占められていた。このことはつくば大学などの調査でも変わらない。
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日本の鍼灸治療は「三大疾患」に集中
「一般にあまり知られていませんが、実際には日本の鍼灸師もいろいろな疾患を治しているのです。なぜそれがあまり知られていないかといえば、これらは健康保険の適用外の疾患であり、鍼灸治療が病院内に入っていっていないため、自由診療という形で治療している患者さんが多いからです。病名のつけられる病気になれば患者さんは基本的には病院へ行きますが、病院で相手にされないような症状の人、診断がつかないような患者さんは、鍼灸院へ行くことになります」(兵頭)
結果として鍼治療の受療者は、整形外科で手を焼くような腰痛や肩こりの患者が多くなっているのは事実である。一方で、日本の鍼灸はそれ以外にもいろいろな疾病を対象にしうる潜在能力をもっているのに、それが見逃されているというわけだ。
「日本の鍼灸のいいところは、筋肉が張って痛いところがあれば鍼を刺すだけで効果を示すという点です。それだけで張りを緩めることができ、痛みを和らげることができます。この『経絡が虚している』とか『実している』ということだけわかれば治療ができる。病因への理論も必要がなく、刺入技術が重要です。ただそこには、その患者さんがどういう状態、病態なのかという考え方はなされてきませんでした」(瀬尾)
日本の鍼灸は理論重視ではなく、患者の話を聞きながら対応していくことから、ナラティブ・ベースド・メディスン(Narrative Based Medicine=対話を臨床実践に生かす医療のこと)ともいわれている。もともと東洋ではどこでも心身を一体ととらえる伝統があるが、日本鍼灸は身体から心にアプローチするような心理カウンセリングに近い機能をもっているともいえそうだ。
「これに対して、中医学的に鍼治療するためには病態把握というものをしなければならず、そのためにはいろいろな方法が必要となるわけです。中国では、じつにいろいろな病気を鍼で治しています。天津などでは、800床の入院患者が鍼治療を受けているのです。日本では肩こり・腰痛の治療は受けられても、中医学の鍼のような幅広い恩恵を受けることができません。これは医療制度上の違いもありますが、病気原因の把握の仕方の違いによるともいえます。日本鍼灸はどちらかというと実践的治療技術といえるかもしれません」(瀬尾)
日本の鍼灸は優れた治療術をもっているが、それを体系化する基礎理論よりも実践を重んじてきた。ここへ中医学のように病態把握をして、「この人の経絡ではこういうことが起きているから、こう治す」という考え方を導入すれば、鍼治療に拡張性が出てくるというわけだ。
1980年代の半ば、後藤学園は日本で初めて鍼灸教育に中医学理論を導入した。最初は兵頭らの手による日本語の鍼教育用の教科書作りから始まっている。
中医学はどの国にも入りうる体系化した学問である。鍼灸は技術があればいいというのではなく、教育課程のなかで学問として習得してもらわなければならないというのが、後藤修司理事長の考えだった。ここで日本の鍼灸教育が変わったことになる。
局所へのアプローチだけでは治せない
兵頭は中医学を「発展医学」と呼ぶ。一般に伝統医学というと、「過去のもの」「昔のものを守り続けているだけ」というふうに考えられがちだが、ここに未来を求め続けてきた。
「中医学は2000年も3000年も前から、見たこともない病気にもチャレンジしてきたという伝統があります。たとえば明から清の時代にかけて温病と呼ばれる流行性の強い疫病がはやり、これに対する学問体系が構築されていきました。最近の例では、いままでにないウイルスが出てきて問題になったSARSのような疾患に対してもアプローチし、成果を示しています。このように中国伝統医学は未知の病気に対応する力を持っているし、これから新しく発生する疾患に対しても当然アプローチしていけるでしょう」(兵頭)
かつて中国はエイズ対策のために鍼の部門を含む総合医療チームを第3世界に派遣した。当時、中国はもちろん国内にエイズやHIVに対する知識はなかったので、患者を見ながら出てくる問題に対してチーム内で対応していかなければならなかった。
チームでは、「エイズというのはどういう疾患なのか」、「どのように罹患し変化していくのか」を観察して、エイズの進行のステージごとに病状をとらえ、病気の進行を漢方薬や鍼を使ってストップさせたり、あるいは改善させる方法について検討した。中国伝統医学の問題解決の仕方は、まずこのように人を見ることだったのである。外因はウイルスや細菌などいろいろあるが、身体は本来そうしたトラブルがあっても、元の状態を保とうとする力を備えている。発病はその力を発揮できない状態になって起こるのであり、中医師はその力が邪気によってどのように捻じ曲げられて弱ってきたかを見抜いて調節し、正気を取り戻すという考え方をしていた。
今日中医学が持つ潜在力は様々な形で注目されるようになり、これをどの分野でどのように生かせるかが検討されるようになってきた。中医学は西洋医学に対し て補完的な役割をする可能性もあれば、積極医療に用いられる可能性も期待される。さらに中医学の特長である予防医学の観点からも、力を発揮する。そうした なかで、「中医学と食養生」、「中医学と看護」、「中医学とリハビリ」、「中医学と栄養」、「中医学とスポーツ」、「中医学と口腔領域」などおびただしい テーマが掲げられている。
このうちたとえば口腔領域での利用分野も、顎関節症、口臭、歯周病などいろいろある。これに対してこれまで歯科医は、局 所の問題に関心を持って治療を試みていたが、なかなかいい治療効果を上げられなかった。これらについて歯科東洋医学会では、中医学の考え方でアプローチし ようとしている。局所の問題は、邪気の影響を受けて悪くなっていると考えたり、五臓のバランスが崩れて局所に病変として出るととらえる。すなわち体内の異 常を放っておいて、局所だけアプローチして治せるのかという問題が提起されているのである。
中国では、鍼灸や漢方の医師を選べるように写真が貼り出されている。
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病院内こそ中医学実践にふさわしい
1983年に関東でも有数のリハビリテーション専門病院として生まれた茨城県守谷市の会田記念リハビリテーション病院では、2004年整形外科の五十嵐康 美医長が中心になって、リハビリテーションに中医学の理論と方法を応用する「統合リハビリテーション・プロジェクト」を発足させた。20年にわたって漢方 と鍼灸を現代整形外科学の手法と分け隔てなく併用してきた五十嵐医長は、リハビリテーション分野にこそ中医学の理論と方法を取り入れるべきという考えに達 したという。
同病院の統合リハビリテーション・プロジェクトでは、医師・看護師・PT(理学療法士)・OT(作業療法士)・ST(言語聴覚士)など医療スタッフが、弁証論治をはじめとする中医学の基礎理論を理解することで、これまでのバイタルサインや理学所見に加えて、より多面的に患者の状態把握を行えるようにしているという。チーム医療を実践していくうえで、スタッフが共通の認識に立って意思を通い合わせることが欠かせないが、その意味で中医学は漢方・鍼灸・食養生すべてにおいて共通の理論で統一されているため、共通の場でディスカッションできる。さらに、中医学は系統的な理論から成り立っているので、スタッフへの教育がしやすい。中医学はチーム医療に共通言語を提供しているのである。
「現場の理学療法士や看護師にも認識は広がっていますが、患者さんは自分が体調のいいときはリハビリに非常に積極的に取り組むし、またリハビリ効果も上がるのです。そこで、中医学の考え方を導入して鍼治療で体調管理をすればいっそう効果が増すことになります。中医学には患者のコンディションを目つきや顔の色つやなどから多面的に把握するすべが受け継がれてきました。体調がよければリハビリも進み、より短期間で回復できるので、そのぶん医療コストも下がることになるわけです」(兵頭)
一方、よく知られているように、国立岐阜大学医学部東洋医学講座では、すでに1993年から臨床に鍼灸治療が取り入れられている。そして、鍼灸治療が一部の疾患に対して治癒率を高め、治療効果を改善することを科学的に明らかにしてきたのである。さらに2005年から日本医科大学や自治医科大学でも鍼灸治療が取り入れられることになった。
また、日本最後の清流といわれる四万十川を擁する高知県中村市には、公立では全国初となる中医学診療専門施設「中医学研究所」が誕生した。ここでは中医学に基づく漢方治療・鍼灸施術が行われるとともに、中医学の研究・教育機能も備えられている。
そのほか、東京校の間近にある牧田病院でも、早くから中医学診療を取り入れてきた。そして同病院をはじめ岐阜大学・日本医科大学・自治医科大学でも、中村市の中医学研究所でも、後藤学園の鍼専攻科のOBが指導的な役割を果たしている。
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