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死を考える

自己の死とは、生命の根源の永遠を見ること

湯浅泰雄(ゆあさやすお)
1925年生まれ。49年東京大学文学部(倫理学科)卒業。54年東京大学経済学部卒業。大阪大学教授、筑波大学教授、桜美林大学教授などを歴任。著書に『近代日本の哲学と実存思想』『身体論』『ユングとキリスト教』『「気」とは何か』など多数がある。

死を

三人称(彼ら/彼女ら)の観点から

ヒトの肉体が活動を停止したことと

とらえているかぎり、

死について考えたことにはならない。

これは科学技術の立場から見た死である。

死について考えるとは

心の問題なのであり、

身体の問題なのではない。


上智大学におられたスペインのマシア神父から、思い出話をうかがったことがある。彼がまだ物心もつかないころ、母方の祖父が亡くなった。そのころ彼は遠く 離れた所に住んでいたのだが、母は、祖父の危篤の知らせを受けると、手のかかる幼いわが子を抱いていった。祖父の死をみとったあと、母はこういったとい う。

「お前はまだ何もわからないだろうけど、わざわざここまで連れてきたのは、人が死ぬということはどういうことなのか、見せておきたいと思ったからだよ。お前が年をとったらわかるだろう……。」

私は神父の話にある感銘を受けたのを覚えている。すべての人間にとって死は必ずある。しかし私たちはそのことを忘れて毎日を過ごしている。現代の日本の社 会では、目の前で人の死を見る機会はほとんどない。現代人は死を忘れ、死について何も考えないで暮らしている。死について考えないということは、生につい て考えないこと、つまり自分の人生の意味について何も考えないでいるということである。人々がそのようにして生きているかぎり、死は何も語らない。死が何 の意味ももたないならば、生もまた意味をもつことはないだろう。

1.死についての三つのとらえ方

人の死について考える場合、次の三つのとらえ方を区別することができる。一人称、二人称、三人称の観点である。

三人称(彼ら/彼女ら)の死というのは、たとえば、年間の交通事故死が約一万件あるという場合のように、ただの数字として示される死である。そういう数字として示される死に対して、私たちは心を動かされることはない。テレビは毎日のように事故死や遠い外国での航空機事故などについて伝え、新聞の死亡欄には日々死者の名前が報じられているが、私たちは自分と関係がないかぎりそんなことはすぐに忘れてしまう。

これに対して、二人称(「私」に対する「あなた」)の死というのは、お互いに相手を知り合っていて、人間としてのつながり(「間柄」)をもっている人の死である。死者と自分の間柄はさまざまである。仕事上の関係や友人などから、親とか子、夫あるいは妻のように濃密な心のつながりのある場合まで、間柄の性質や度合いはいろいろあるが、心のつながりが深ければ深いほど、その人の死は悲しみと心の痛みをともなう。それとともに、相手が生きていたことが自分の人生にとってどういう意味をもっていたのか、ということについて考えさせられる。人の死について考えるとはそういうことである。それは、三人称の死を知る場合のように、肉体の生命活動が停止したという客観的事実を認識することではない。言い換えれば、死について考えるとは心の問題なのであって、身体の問題ではない。

現代の社会では、高齢化の進行とか脳死と臓器移植の論議などをめぐって、私たちは死について考えるように求められている。しかながら、死を三人称の観点からヒトの肉体が活動を停止したこととしてとらえているかぎり、われわれは死について何も考えたことにはならない。科学技術の立場から見た死とはそういう死である。そこでは、死とは人間的意味を欠いたただの数量でしかない。

死を考えるとは、間柄(二人称)における他者の死を経験することを通して、自分自身の死、言い換えれば一人称としての私の死について、それを心の問題として考えていくことである。

この頃はがんやエイズをはじめ、死の接近が確実に予測できる病気が話題になることが多い。自分の死を見つめているそういう人たちの闘病記にふれる機会も少なくない。私の友人の中にも、がんに冒されていること知ってから何年も、死の数カ月前まで教壇に立って講義をつづけていた人がいる。そういう人たちの語る言葉には、日常私たちが接している人々のおしゃべりや行動とは性質の違った、生きていることの真実さが感じられる。そこで語られているわが子や妻への愛情とか友人への思い、あるいは自分の仕事への執念とかは、これは本物であると感じられる。そのとき私たちは、死にゆく人の人格に対するある畏敬の思いを抱く。そこに人間というものの本質が感じられるからである。

死について考えるとは、そのように自分自身の死を見つめながら、自分が今この世界に他者とともに生きている運命についてその意味を考えていくことである。答えはむろん人によってさまざまであるだろう。私には、そのとき意識が与える答えだけがすべてではないように思われる。

2.死の本能とは何だろうか

フロイトは晩年、無意識には死の本能(タナトス)がそなわっているといった(タナトスはギリシア語で死という意味)。彼はこれを、仏教用語を借りて涅槃(ニルヴァーナ)原則ともよんでいる。フロイトの考えるところでは、意識化の深い層には何千年もの昔に生命が発生し発展してきた太古の歴史が息づいている。生物は無生物の状態から生まれてきたものであって、人間の心の底にはその原始の状態にひかれる郷愁のような本能が潜在しているのだという。東洋風の言い方をすれば、これは「自然に帰る」本能的願望といえるかもしれない。個体の一生は誕生から死に至る過程であり、その意味で、生きているという状態は本来不安定なのである。そこに不安定を解消して安定した原始の状態に帰ろうとする本能がはたらく、と彼はいう。

フロイトは理由もなくこんなことをいったわけではない。これには彼なりの精神医学上の考察がある。よく知られているように、彼は無意識に潜在する欲望の基本を性本能に求めた(エロスあるいは快楽原則)。彼はやがて性本能と暴力(闘争本能)の関係に注目し、サディズムとマゾヒスムの問題について考えた。サディズムとは相手に対する暴力の行使が性的エクスタシーを高める心理状態であって、その極限は相手の死、つまり殺人に到る。猟奇的な異常犯罪の中にこういう事例があるということは、近年は一般の人々にも知られてきたことだろう。マゾヒスムは、事例はさらに少ないが、この逆、つまり相手から暴力を行使されることが性的エクスタシーを高めるという場合である。その極限は自己の死であろう。フロイトはこのような事例に注目したのである。

ところで、近年、禅やヨーガなど東洋の瞑想法に対する関心が西洋諸国でも高まり、無意識の心理学の観点から研究が進められている。無意識の本能の基本は、種族維持の本能である性と、個体維持の本能である食の二つである。人間のように心の構造が複雑に発達していない動物の場合をみれば、この二つの本能が生命体の本質に根ざすものであることがわかる。生態系のバランスは弱肉強食の闘争の上に成り立っているが、その基礎にはこの二つの本能が見出される。

仏教的用語を使えば、瞑想の修行は煩悩を克服する心の訓練である。煩悩とは無意識に根を下ろしたさまざまの情動的コンプレックスを生み出す本能のことであり、性衝動もその一つである。ただし煩悩を克服するということは、それを意識によって抑圧することではない。フロイトは、リビド(性エネルギー)を昇華することによって、精神的価値の高い活動が生まれると考えた。芸術創作の場合などはこれに当たるだろう。ユングは同じことをリビドの「変容」とよんでいる。

道教の瞑想法である内丹では、この過程を還精補脳(精を脳に還す)とよんでいる。このプロセスは「練精化気」から「練気化神」をへて「練神還虚」という順序をとる。東洋医学の用語でいえば、精とは気が腎(泌尿生殖機能)に蓄積された状態である。そのはたらきを活発にして運行させるのが練精化気(精を練って気と化す)過程である。さらに瞑想が深くなれば、気は浄化されたエクスタシー体験をもたらし、最後は心のはたらきが何も起こらない無心の状態に至る。これが「気を練って神と化す」「神を練って虚に還る」という過程である。ヨーガや内丹の訓練の初期には、時々性的エクスタシー状態が襲ってくる場合がある。これは練精化気のプロセスに伴う心理状態である。その衝動を自己の外部でなく内部に向けることによって、エクスタシーは肉体的なものとは異なった澄み切ったエクスタシーに変容する。


性が種族維持の本能にかかわるのに対して、食は個体維持の本能にかかわる。瞑想の訓練にこの本能を用いるのが断食である。これにはいろいろなレベルがある が、食を断つことは死に近づくことだということができるだろう。心理学的にみると、瞑想の訓練は左脳的な知的な意識活動を低下させ、右脳的な感受性や直感 のはたらきを活発にする。肉食を制限することはこの直観を促進し、より深いエクスタシー状態にみちびく効果がある。ユングはそういう状態を、無意識に潜在 するセルフがはたらき始めたことを意味するという。セルフとはコンプレックス(煩悩)の底にかくれたほんとうの自己というような意味である。これは仏教で いう空とか道教でいうタオにあたる概念である。ここでは、死を考えることは知的な作業ではなく、心身全体の努力によって肉体と結びついた意識的自我の構造 を破壊し、自己の生命の根元からのはたらきを受け入れることを意味する。

3.自然と永遠

気の考え方に従えば、生命は気が凝集し働いている状態であり、死とはその気がバラバラになって自然に帰る状態である。気は、人体の内部では経絡を流れている。経絡は、近代医学が認めていないシステムである。人体を解剖しても経絡は見出せない。それは、無意識の情動(五情、七情)と内臓器官の生理的作用を結びつけている見えないスーパーシステムである。

ある友人の教授の父親ががんになり、医者ももう打つ手がないので治療をやめ、死を待つばかりの状態になった。友人は、子として毎日つらい思いでいる、せめてしばらくでも苦痛を和らげてやりたいといって、私によい気功師を紹介してもらえまいかと頼まれたことがあった。気功師は二、三度来てくれて、病人はそのたびに心地よい時間がもてたという。その次に来たとき、彼は病人の脈をみて、「死脈が出ているから、もうあと三、四日の命である、縁者を集めてお別れをするように……」といった。さらにつけ加えて、死が接近した病人は、軽い天変地異でも反応して亡くなることがあるから注意するように、といったという。医者はまだ二、三カ月はもつだろうといっていたそうであるが、病人は縁者と別れの対話を交わしたあと亡くなった。その日の明け方、小さな地震があったという。友人は、死のみとりまで教えてもらって、とても有り難く思ったと語った。死脈というのは、経絡の気が生命の最後の時を告げることであろう。


ユングはこんなことをいっている。老人の患者を診断していて気づいたことがある。患者の無意識は既に死が接近していることを教えているのだが、彼の意識は それを自覚できないために死を恐れている。無意識はしかし、死がすべての終わりであるとはいってはいない。まだその先があると教えている。

達人は死を知るという。自己の死とは、生命の根源の永遠を見ることであろう。