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心の診療日記 – 3

池見酉次郎先生から学んだこと

1999年6月25日午後9時52分、わが国はもちろん、国際的にも心身医学の泰斗である池見酉次郎先生が遠い世界に旅立たれました。
享年84歳でした。

永田勝太郎 浜松医科大学保健管理センター(心療内科)

1948年、千葉県生まれ。福島県立医科大学卒業。医学博士。千葉大学第一内科、北九州市立小倉病院心療内科、東邦大学麻酔科などを経て、現在浜松医科大学保健管理センター講師(心療内科)。
1996年「ヒポクラテス賞」(第一回国際医療オリンピック)、1997年「シュバイツァー賞」(ポーランド医学会)を受賞する。
主な著書に「全人的医療の知恵」(海竜社)「バリント療法」(医歯薬出版)「新しい医療とは何か」(NHK出版)など多数。

池見先生との出会い

私が医学を志したのは、20数年前の慶應大学経済学部在学中のことでした。当時、荒れ狂う学園紛争の中で、私たち学生は、人間とは何か、世界とは何か、生きるとは何かを問い続けていました。その答えを見いだす1つの方法として、私は人間をよく知る学問を学びたいと考えるようになり、その結果、医学を志しました。私は、医学こそが「総合的人間学」であると考えたのでした。
福島医大に入学し直したものの、医学教育を受けるにつれ、自分のめざしたものと実際の医学教育には大きな乖離がある事を知りました。そうした失望の中で出会ったのが、池見酉次郎先生の書かれた『心療内科』『続・心療内科』という2冊の新書でした。それは医学部5年生の時のことでした。
本屋の棚でたまたま見つけたこの2冊を私は貪るように読みました。さすらっていた暑い砂漠のなかにオアシスを見つけた気持ちでした。読後の興奮の冷めぬまま、私は失礼を顧みずに先生に手紙をしたためました。そんな田舎の一学生の手紙に対し、先生はすぐさま返事をくださいました。そして、九州大学へ見学に来るよう勧めてくださったのでした。
しかし、当時貧乏学生であった私は福岡までの旅費が作れずに、すぐ出かけることはできませんでした。何度かの手紙の往復の後、結局、医師国家試験の終了直後に九州大学心療内科を見学に行きました。
池見先生に初めて出会い、心療内科の医局会で医局員に紹介されたとき、先生はこう言われました。
「皆に、永田君を紹介しよう。今回は見学だが、将来は心療内科に来る人だ」
軽い気持ちで見学に来たつもりが、この一言で身がひきしまったのを、つい昨日のことのように思い出します。

私はその後、郷里の千葉大学の内科に入局し、初期研修を受けました。その後、千葉労災病院に出向したのですが、研修の終わる頃、東京のホテルで池見 先生の講演会がありました。大きな会で、多分1000人以上の参加者があったと思います。私の知る限りでは、個人講演会では最大のものでした。当時、先生 は九州大学を定年退官され、北九州市立小倉病院(現北九州市立医療センター)の院長に就任されたばかりでした。
懇親会の後、先生とホテルのティールームでお会いした時、「ぼちぼち、九州で本格的に心療内科の勉強をしたらどうかね。君がその気なら、小倉病院にいらっしゃい」と言ってくださいました。
しかし、父は九州行きには猛反対でした。何しろ、医師になることにも反対したくらいでしたから、修行のために関門海峡を越えることなど思いもよらなかったことだったのでしょう。そんな父を押し切り、私は小倉に赴任しました。

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自分で決めることの意義

小倉では小倉病院の九州大学心療内科の医局員の席をお借りできました。
心療内科の勉強は、はじめ一年間の約束でした。心療内科、一般内科、糖尿病センターの医師を兼ね、毎日が多忙を極めました。
小倉へ行って、5ヵ月目の頃、ある日、院長室に呼ばれました。
「永田君、この原稿書いてみませんか」
それは、ある雑誌のエッセー欄でした。テーマは「バランス」。
私は、一生懸命書き、先生のところへ持って行きました。先生の「赤」が入った原稿は活字になりました。その後間もなく、再び院長室に呼ばれました。
「この前の原稿はよかったよ、今度は専門誌だが、書いてみませんか」
それは、産婦人科の専門誌であり、テーマは「心身医学の手ほどき」という連載ものでした。何日かかけ、夢中でその原稿を書き、恐る恐る院長室に持ってゆきました。先生はその原稿をていねいに直してくださり、世に出してくださいました。
そんなある日、再び院長室に呼ばれました。
「永田君、君には心療内科医としての素質がある。1年で帰らずに、しばらく小倉で勉強してみませんか」
その道の泰斗にそう言われ、私はうれしくて目がくらむ思いがしましたが、同時に父のことが心配になりました。実家に帰り、そのことを父に話したところ、案の定、父は猛反対でした。親子げんかになり、困り果て、先生に助けを求めるため、電話をしました。先生はしばらく私の話を聞いた後、2・3分黙り、そして一言いわれました。
「・・永田君、・・自分で決めなさい」

その瞬間、私は小倉に残ることを決めました。残ることを自分で決めたのですから、私は何があってもこの師匠についてゆこうと心に決めたのでした。
そ の後、先生が「自分で決めよ」と言われたことの意味を何度も考える機会がありました。師匠が弟子に甘い慰めを言うことはたやすいことです。しかし、それで は弟子のほうに責任感が生まれません。自己決定を自覚してさえいれば、何が起きても自己の責任において問題解決しようとします。それを他力により決定する ときには恨みや甘えが生じてきます。 その後、小倉でおきたさまざまな事件を乗り切るときに、「自分で決めた」ことの重要性をかみしめ、先生のありがたさ に身を震わせたことが何度もありました。
こうした相手の自律性を尊重する態度は、その後ずっと経ってから出会った、ウイーンのビクトール・フランクル博士も、またニューヨーク大学のステーシィ・デイ教授も全く同様でした。

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手元に残る真っ黒な原稿

ある日、院長室に呼ばれた私は、先生から、こう言われました。
「今度、医学教育学会があります。心身医学の普及のためには、医学教育のなかに心身医学ががなじまなくてはいけない。『治療的自我』は『態度教育』においては重要な問題です。君が発表しなさい」
「はい」と、答えたものの私は戸惑いを感じました。何を発表したらよいか、皆目見当がつかなかったのでした。
いつもなら、学会の少なくとも2週間前には原稿を作り、先生に見ていただいていたのですが、今回は原稿が書けません。ついに院長室から、「原稿はどうなっている?」の問い合わせが入る始末。それでもまだできません。
ついに発表の前日になってしまいました。会場は筑波です。
「私は先に行く。今夜の懇親会の席に出ているから、そこに原稿を持ってきなさい」
先生にそう言われ、私は外来と病棟の回診を済ませ、福岡空港から東京に向かい、さらに常磐線で土浦に向かいました。その間、夢中で原稿用紙に向かい、どうにか書き上げました。
会場の筑波大学に着き、懇親会場に向かいました。そこで先生を捜すと、先生はすでにほろ酔い機嫌でした。私の姿を見つけると、
「おう、できたかね」と尋ねられました。
「はい」と答え、恐る恐る原稿を差し出すと、さっとそれを一瞥し、顔色を変えて、「こんなのを発表する気かね。だめだ。すぐ私のホテルに来なさい」と言って帰り支度を始めました。
私は黙って先生の後を追いました。ホテルに着くと先生はすぐに寝間着に着替え、テーブルに向かいました。何事か、ぶつぶつ言いながら、一心に私の原稿に向かっています。私はただ茫然と部屋の入り口に立っていました。
2時間、否、3時間が経ったでしょうか。先生はふと振り返り、
「お?永田君、そんなところで何をしている?早く自分のホテルに帰りなさい。そうだな、あす、朝7時にもう一度ここに来なさい」
そう言われると再び、机に向かわれました。
私は何とも申し訳のない気持ちで、一礼して部屋を出、自分のホテルに向かいました。初夏の筑波のひんやりと冷えた夜気の中をとぼとぼと歩いていったことをよく覚えています。長い道でした。
その晩、まんじりともせずに、朝を向かえ、早めに先生の部屋に向かいました。
ドアをノックすると、先生は赤い目をこすりながら、
「おい、できたよ。これなら完全だ。ほれ、よく読んでみろ」と言って、鉛筆で真っ黒になった原稿を私に渡してくれました。
「これを元に、OHPシートを作りなさい」
すぐさま走って私のホテルに帰り、8時半迄の一時間半で、用意したOHPシートに書き込み、会場へ急ぎました。私の発表はその日のトップだったからです。
発表は好評でした。終わった後で、先生の元に行き、「先生、ありがとうございました」とお礼を言うと、先生はにっこり笑い、
「無事すんでよかったな。医学教育は大切だからね。医療は本質的には教育と一緒なんだよ。このことを心身医学の人たちはもっとよくわからなくてはいけない。君はこのことを忘れないようにね。君は教育に素質がある」
と言ってくださいました。
私は先生が徹夜で直してくれた真っ黒の原稿を今も大切に持っています。医学教育における「治療的自我」や「態度教育」はもっとも重要な課題で、その後、その具体的な方法としてWHOの推奨するAscona方式のバリント・グループを採用する最大の要因となったのでした。このテーマは今も絶えず考え続けています。

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全人的医療の夜明け前

先生との思い出は限りなくあり、枚挙に遑がありません。医学生のための「全人的医療を考える会」や「バリント式保健医療協会」、「日本慢性疼痛学会」、「日本実存心身療法研究会」、「国際全人的医療学会発起人会」を結成したことなど、数限りなくあります。
先生は私たちを励まして下さり、
「永田君、いいか、夜明け前が一番暗いんだ。君たちは一騎当千の志士だ。頑張るんだよ」
と、よく言って下さいました。
先生は心身医学から全人的医療への展開を心から、願っておられました。私たちは、先生を失った悲しみを超え、先生の遺志を継いで、その実現にさらに邁進しなくてはならないと考えています。

先生のご冥福を心からお祈りしたいと思います。合掌